グスコーブドリの伝記、やまなし、オツベルと象は初読。やはり不思議な、妙に心にひっかかる世界。厳しい自然、労働の尊さ、人間の強さと優しさ、といったもののほか、生きることの寂しさというものも感じた。
『銀河鉄道の夜』の情景描写の美しさにはうっとりする。カムパネルラの自己犠牲ばかり記憶に残っていたが、大人になってから再読すると、鳥捕りやかおる子を邪魔だと思ったり、邪魔扱いしてしまったことに罪悪感を感じたりするジョバンニに切なくなる。こういう気持ちはつい抱いてしまうものだと思う。ジョバンニは寂しいのだ。カムパネルラ以外の人間に対して心を閉ざしている。そんなジョバンニに対して、カムパネルラとずっと一緒にいることはできない、出会う人みながカムパネルラなのだ、というブルカニロ博士の指摘は優しくも厳しい。相手を選ばず、隣人愛を持つことは難しいことだ。
ブルカニロ博士のシーンは全く記憶に残っていなかったが、このシーンがあるバージョンとないバージョンの両方があり、削除されたものが決定稿とみなされているらしいので、子供の頃に読んだバージョンにはなかったのかもしれない。個人的には博士のセリフがあってはじめて主題が理解できた気がしたのであったほうが良いと思うのだが、多少の説教臭さも出るので、削除が相当と考えたのだろうか。
『オツベルと象』は怖い。時計や靴だとごまかして鎖や重りをつけてしまうところはぞっとする。「さびしく」笑う白象からは、人は労働により他人も自分も幸せにできるはずのものなのに、どうして搾取構造ができてしまうのだろうか、という哀しさを感じた。『銀河鉄道の夜』でも標榜されるように、みんなが幸福な状態が理想なのだとすれば、オツベルが殺されるラストはみんなが幸せになれていないということなのか。プロレタリア文学のような印象も受ける童話だが、革命ではみんなの幸福を達成できないと賢治は考えていたのかもしれない。川に入ってはいけない、という最後の一文は謎めいている。単に牛飼いが話の聞き手である子供たちに注意しているだけではないかとも思う。あるいは聞き手が牛なのだとすれば、牛は、最初に川で働いた白象のように、牛飼いの幸福のために労働したくなったのだろうか…。
『どんぐりと山猫』はかわいらしい話で子供の頃に好きだったが、ふと、山猫が「出頭すべし」と書きたがった理由は何なのだろうか、と考えてしまった。山猫は、口では一郎に名誉判事になってほしいと言っているが、裁判所が裁判官に対して「出頭すべし」とは普通書かない。むしろ被告のようだ。もしその文言を許したら、次のときには怖いことに巻き込まれたのでは?という想像もしてしまう。