病の「皇帝」がんに挑む 人類4000年の苦闘(下) [Kindle]

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感想・レビュー・書評

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  • 「上」に引き続き「下」を読んだ。「上」は、過去からのがんの治療についての記載であり、「下」は、がんの原因や要因の記載であった。生物について、特にDNA等の知識がないので字面を追うだけになった部分が多くあった。また、喫煙が肺がんの原因の一つであるのに社会的に取り組まれるのが遅かったことが、印象に残った。アメリカでは、たばこ製造会社は民間であるのでがんの対策に対する抵抗勢力であったのは理解できるが、日本ではたばこ製造は当時専売公社であったので抵抗勢力は日本国そのものであったことが理解できない。自分も当時喫煙しており、国民として国に操られていたことに忸怩としたものがある。

    〇これはある種の人々に特有の病気……つまり、〝煙突掃除夫の〟がんである。ジョージ王朝時代(1714~1830年) のイギリスでは、煙突掃除夫、すなわちクライミング・ボーイは病気の温床―肺結核や梅毒や痘瘡の不潔な温床―と考えられていた。陰嚢がんの原因は皮膚に慢性的にくっついたままの煙突の煤である可能性が高いと結論づけられた。
    〇たばこを紙で巻くというアイデア自体、新しくはなかったが(「パピロッシ」または「パペリート」と呼ばれるたばこを巻く紙きれはすでに、イタリアやスペインやブラジルを経由してトルコに伝わっていた)、この文脈自体に重要な意味が含まれている。感染症というのはきわめて適切な隠喩だ。というのも、紙巻きたばこはまるで強力な感染症のようにそれらの国(ヨーロッパの戦争国)で急速に広まり、さらには大西洋を渡ってアメリカにまで伝搬した。
    〇ウイルスと同様にたばこも変異し、さまざまな状況に自らを適応させた。ソ連の強制労働収容所では、たばこは非公式の通貨になった。イギリスの婦人参政権論者のあいだでは反抗のシンボルになった。アメリカの郊外居住者のあいだでは男らしさの、不満を抱く若者のあいだでは世代間の亀裂の象徴になった。
    〇もしがんが近代化の典型的な産物だとしたら、その主要な回避可能な原因、たばこもまた、近代化の産物だった。
    〇1940年代初めには、たばことがんとの関係を尋ねるのは、椅子に座るという行為とがんとの関係を尋ねるのと大差なくなっていた。
    〇戦争はたいてい、軍需と紙巻きたばこという二つの産業を活性化させる。
    〇政治家自身のたばこ中毒が……彼らを盲目にしているのだと結論づけざるをえない。彼らには目がある。が、禁煙できないためか、禁煙する意志がないために、物事を見定められずにいる。そうした状況を考えるにつれ、次の疑問が生まれてくる……ラジオやテレビによるたばこ産業の広告放送を、このまま許可しつづけていいのだろうか?国民の健康を守る公的機関であるアメリカ公衆衛生局は、少なくとも警告文を出すべきではないだろうか。
    〇〝原因〟ということばは、ある因子とある障害や病気とのあいだに、重大かつ充分な関係が存在するという事実を伝えることばである……そうした概念の複雑さを充分認識したうえで、委員会は、喫煙と健康の関係についてのいくつかの結論のなかで、〝原因〟あるいは〝主要な原因〟ということばを使うことに決めた。その点を明記した。
    〇公衆衛生局長官の報告書や、連邦紙巻きたばこ表示広告法(FCLAA)による警告表示の義務づけや、たばこ広告への攻撃は、かつては難攻不落と考えられていた産業に対する強烈な連続攻撃となった。
    〇MSAは、たばこ産業にとっての避難場所をつくり出す可能性が高い。将来の訴訟からの相対的な保護を保証し、たばこ広告を規制し、署名した企業による価格の固定化を許可することによって、MSAは、署名した企業に事実上の独占権を与えているのだ。
    〇喫煙は今では、インドと中国における主要な死因である。
    〇ほぼすべての新薬の発がん性が厳しく調べられ、ある物質とがんとの関連性がほんの少しでも疑われたならすぐにも大衆のヒステリーとメディアの不安に火がつくこのアメリカという国で、誰もが知るもっとも強力かつありふれた発がん物質がどこの街角でもほんの数ドルで自由に売られているという事実には、今も驚愕させられ、心をかき乱される。
    〇たばこの煙が強力な発がん物質に分類されたことは―加えて、たばこ規制に向けて徐々に解き放たれた1980年代の雪崩のような力は―まちがいなく、がん予防の将来にとっての重要な勝利の一つだった。
    〇ヘリコバクター・ピロリと胃炎との関連は、ヘリコバクター感染とそれによる慢性炎症が胃がんの原因である可能性を示唆した。実際、1980年代末までには、疫学調査によって、ヘリコバクター・ピロリを原因とする胃炎から胃がんが発生することが判明していた。
    〇これほど多様な原因を持つ病気は前例がなかった。複雑な症状を呈する複雑な病である糖尿病も、根本的にはインスリン分泌の異常が原因だ。虚血性心疾患は、動脈硬化性 隆起 が心臓の血管を狭くしたり、破れて血管を詰まらせたりするために発生する。それに対して、がんについては、その発生メカニズムについての統一的な説明が決定的に欠如していた。制御されない異常な細胞分裂以外に、いったい何が、がんの発生の根底にある共通の病態生理学的メカニズムなのだろう。
    〇1970年代、ドイツのウイルス学者ハラルド・ツア・ハウゼンによって、子宮頸がんを引き起こすウイルス(HPV)が発見された。HPVのいくつかの種をターゲットにしたワクチンの接種によって、子宮頸がんのリスクは劇的に減少した。
    〇過剰診断であっても過小診断であっても患者が多くの代償を支払うことになるがんのスクリーニング検査においては、残念ながら、両者の絶妙なバランスを見つけるのは不可能な場合が多い。
    〇がんの性質は一様ではない。ある腫瘍は本質的に良性であり、悪性化しないことは遺伝学的に決まっている。
    〇これらすべての条件を満たす検査―過剰診断率および過小診断率が許容範囲内で、真に無作為化された臨床試験によって死亡率を下げると判明した検査―だけが、成功とみなされるのだ。そうした条件はあまりに厳しく、これほど厳密な精査に耐えてがん対策に真の貢献ができるほどに強力なスクリーニング検査というものは、実際のところ、ほとんど存在しない。
    〇15年間のあいだに、マンモグラフィーは、55歳から70歳の女性の乳がんの死亡率を20から30パーセント減少させたが、55歳未満の女性に関しては、マンモグラフィーの有用性はほとんど認められなかった。
    〇腫瘍が小さいからといって転移していないとはかぎらないというのもまた真実だ。マンモグラフィーでかろうじて検出されるくらいの比較的小さな腫瘍でも、早期に転移を起こすような遺伝子プログラムを持っている可能性がある。その反対に、大きな腫瘍でも、遺伝的に良性の―浸潤や転移を起こしにくい―場合もある。
    〇「もう何かで読んでご存じかもしれませんが、あなたのがんの場合、局所再発か、転移の可能性が少なくありません」と彼は言った。「おそらく、50から60パーセントの確率で起こると考えられます」彼女はうなずいた。その顔に緊張が走った。「でもまあ、そのときには、対処します」私は彼が、「もしそうなったら」ではなく、「そのときには」と言ったのに気づいた。数字は統計学的な真実を物語っていたが、彼のことばはニュアンスを含んでいた。「対処します」と彼は言った。「取り除きます」ではなく。治す、とは言わずに、ケアする、と言った。
    〇看護師―その多くがゲイの男性だった―が引力に引かれるようにして5A病棟に集まり、友人の看護をした(あるいは、エイズの流行がいっそう勢いを増すにつれ、今度は自分自身が患者となって戻ってきた)。
    〇逆転写酵素を使って自らの遺伝情報をRNAからDNAに換えてヒトのDNAに潜り込むRNAウイルス―レトロウイルス―にちがいないと考えた。
    〇がんは「不敗のまま」今も君臨しつづけている、とベーラーは結論づけた。グラフで表わされたアメリカのがん対策の進歩は平らな線であり、がん戦争は行き詰まっていた。55歳以上の男女では、がんの死亡率は上昇していたが、55歳未満の男女ではそれとまったく同じ割合だけがんの死亡率が減少していたのだ。大腸がんの死亡率は30パーセント近く減少し、子宮頸がんをはじめとする子宮がんでは20パーセント減少していた。どちらのがんもスクリーニング検査で(大腸がんは大腸内視鏡検査で、子宮頸がんはパップスメアで)発見されるようになっており、死亡率の減少の少なくとも一部は、早期発見の結果と考えられた。
    〇多くの小児がんでも、その死亡率は1970年代以降減少しはじめ、その後も減少を続けていた。ホジキンリンパ腫や精巣腫瘍でも同様の傾向が見られた。
    〇「がんというのは実際には多様な病であって、それを単独のアプローチに屈する単独の病と見なすのは、神経精神疾患を、単独の戦略で対処できる単独の疾患ととらえるのと同じくらい非論理的である。
    〇白血病細胞は厳密に言って、不死だ。細胞を採取した女性は30年前に亡くなっている。がんでは、細胞は自律増殖能を獲得しており、内的シグナルによって分裂が促進されている。
    〇一つの細胞からその子孫の細胞へと遺伝情報が伝わる過程は一連の段階を経ている。まず、細胞分裂時に染色体上の遺伝子が倍化し、子孫の細胞に受け渡される。次に、DNAに書き込まれた遺伝情報がRNAコピーに写し取られる。最後に、このRNA上の遺伝情報がタンパクに翻訳される。遺伝情報の最終産物であるタンパクは、遺伝子に書き込まれた(コードされた)機能を実行する。
    〇通りがかりの人物に、鍵はそこでなくしたのかと尋ねられた男は、ほんとうは家でなくしたのだと答える―それなのに男が街灯の下で探しているのは、「ここが一番明るいから」と答える有名なことわざに登場する「街灯の下で鍵を探す男」のようだと冗談を言った。
    〇1950年代初頭には、がん研究者たちはたがいに競い合う三つの陣営に分かれていた。ラウス率いるウイルス学者は、ウイルスががんの原因だと主張し(まだヒトではそのようなウイルスは発見されていなかったにもかかわらず)、ドールとヒルをはじめとする疫学者は、環境の化学物質ががんの原因だと主張した(その説や研究結果についての科学的な説明はなかったにもかかわらず)。一番隅に押しやられていたのは、テオドール・ボヴェリの後継者たちからなる三番目の陣営だった。彼らが手にしていたのは、細胞に内在する遺伝子ががんの原因であることを示唆する弱い状況証拠だけであり、疫学者が持っているような確固たるヒトのデータもなければ、ニワトリのウイルス学者のような巧妙な実験的洞察もなかった。
    〇ラウス肉腫ウイルスは普通のウイルスではなく、遺伝情報を逆向きに書くことのできるウイルス、つまり、レトロウイルスだったのだ。
    〇レトロウイルスの遺伝子はRNAの形で存在する。レトロウイルスが宿主細胞に感染すると、RNAを鋳型にしてDNAコピーが合成され、そのDNAが宿主細胞の遺伝子に組み込まれて、プロウイルスと呼ばれる状態になる。次に、このプロウイルスからRNAが合成され、そこからウイルスタンパクがつくられ、そして、あたかも不死鳥のように、新しいウイルスが完成する。ウイルスはこのように、常に移動中であり、細胞のゲノムから発芽すると、別の細胞にふたたび感染し、RNA→DNA→RNAという流れが無限に繰り返されることになる。
    〇srcは典型的なキナーゼだった―ただ、極端に活性化されていた。
    〇srcは、細胞を非分裂状態から分裂状態へと無理矢理誘導し、がんの特徴である、分裂加速状態へと陥らせる。
    〇がんはもともとわれわれのゲノムに「負荷」されており、活性化されるのを待っている。われわれはそんな致死的な重荷―われわれ自身の遺伝子の「負荷onkos」―を遺伝子のなかに持つよう運命づけられているのだ。
    〇喫煙者も非喫煙者も同じ原がん遺伝子を細胞内に持っているからであり、喫煙者のほうががんの罹患率が高いのは、たばこがそれらの遺伝子の突然変異率を増加させるためである。
    〇よい理論ほど、決して起こらない可能性や反証される危険性のある、ありそうにない現象や出来事を予測する。そして、そんなありそうにない現象が真実だと証明されたり、その出来事が実際に起きたりすると、理論はたちまち信頼性と力強さを獲得する。
    〇rasという遺伝子を含む同じDNA断片を分離していたのだ 。srcと同様にrasも、あらゆる細胞に存在し、srcの場合と同じく正常細胞のrasも、がん細胞のrasとは異なる機能を持っている。正常細胞のrasは、厳密な調節のもとでオンとオフが切り替わるスイッチのようなタンパクをコードしているが、がん細胞では、ヴァーマスとビショップの予想どおり、その遺伝子は変異している。変異したrasがコードしているのは永久にオンのままの、活性の亢進した、細胞分裂を促すシグナルを永久に送りつづける凶暴なタンパクであり、rasこそ、長いあいだ科学者たちが探し求めてきたヒト「本来の」がん遺伝子だった。
    〇家族の歴史のなかに、二つの際立った特徴を見つけた。一つ目は、それぞれの家系でがんの発生部位が決まっているという点だ。ある家系では大腸がんと卵巣がんが発生し、別の家系では乳がんと卵巣がんが、また別の家系では肉腫と白血病と神経膠腫 が発生するといった具合に。二つ目は、異なる家系でしばしば同様の腫瘍の発生パターンが見られるという点であり、その事実は、それらの家系に共通する遺伝性症候群が存在することを示唆している。
    〇がんはたいてい、身を屈めながら誕生に向かって秘かに進んでいき、そのあいだに完全な正常細胞から明らかな悪性細胞までの段階的なステップを踏んでいくのだ。
    〇がん遺伝学者はすでにこの疑問に対する二つの答を知っていた。第一に、原がん遺伝子は変異によって活性化されなければならないが、変異はめったに起こらないからだ。第二に、がん抑制遺伝子は不活性化されなければならないが、がん抑制遺伝子にはたいてい二つのコピーが存在し、それが両方とも変異しなければならないためだ。さらにフォーゲルシュタインが、三つ目の答を提供した。一個の遺伝子の活性化または不活性化は、発がんのプロセスの一段階にすぎない。発がんのマーチとは、多くの遺伝子の変異を介する、長くてゆっくりとしたマーチなのだ。遺伝学的に言って、われわれの細胞はがんの奈落の縁に座っているわけではない。奈落に向かって、徐々に、段階的に引っぱられているのだ。
    〇がん細胞はその根本的な分子的性質において、われわれ自身のコピーなのだ。生存能力を付与され、活動の亢進した、多産で創意に富む、われわれ自身の寄せ集めのコピーなのである。
    〇 1 増殖シグナルの自己充足 rasやmycなどのがん遺伝子の活性化により、がん細胞は自律増殖能(病的分裂能)を獲得する。
    2 増殖抑制(抗増殖)シグナルへの不応答 がん細胞は、細胞増殖を抑制するRbなどのがん抑制遺伝子を不活性化する。
    3 プログラム細胞死(アポトーシス)の回避  がん細胞は、細胞死を可能にする遺伝子や経路を抑制し、不活性化する。
    4 無制限な複製力  がん細胞は、いくつもの世代を経たあとも不死でいられるための特別な遺伝子経路を活性化する。
    5 持続的な血管新生   がん細胞は自らを養うための血液および血管の供給を引き出す能力を獲得する(腫瘍血管新生)。
    6 組織への浸潤と転移   がん細胞は他臓器に移動し、組織に浸潤し、それらの臓器にコロニーを形成する能力を獲得し、その結果、全身に広がる。
    〇多剤併用化学療法で治癒したホジキンリンパ腫、手術と化学療法と放射線療法で良好にコントロールされた局所進行肺がん、強化化学療法で長期間の寛解がもたらされたリンパ性腫瘍がある。
    〇肺がん、乳がん、大腸がん、前立腺がん―の死亡率が一五年間連続で減少している。肺がんの減少を促進したのは一次予防だ―ドール/ヒルとヴィンダー/グラハムの研究がきっかけとなって起こった喫煙率の減少が、公衆衛生局長官の報告書によって促進され、政治行動(警告文表示についての連邦取引委員会の積極行動)と、創意に富んだ訴訟(ベンザフとシポロンの訴訟)と、唱道活動と、カウンターマーケティング(反たばこ広告)の共同作用によって、いっきに加速したからだ。大腸がんと子宮頸がんの場合、その減少はほぼまちがいなく、二次予防―がんのスクリーニング検査―の成功による。大腸がんはより早期に、しばしば前がん病変の段階で発見されるようになり、より侵襲の少ない手術で摘出されるようになった。全国のプライマリ・ケアセンターでパパニコロウのスメア技術を用いた子宮頸がんスクリーニングがおこなわれるようになり、大腸がんの場合と同じく、前がん病変の段階でより侵襲の少ない手術によって取り除かれるようになった。白血病、リンパ腫、精巣がんの場合は、死亡率の減少は化学療法の成功を反映している。小児急性リンパ性白血病(ALL)では80パーセントという治癒率が常に達成されるようになった。ホジキンリンパ腫も高い確率で治癒が期待されるようになり、大細胞性リンパ腫のなかにも予後良好なものが出てきた。乳がんの死亡率は過去に前例がないほど(24パーセント)減少したが、それには三つの医学的介入が影響していると考えられた。マンモグラフィー(早期がんを発見することによって進行がんを防ぐためのスクリーニング)と手術と術後 補助化学療法(手術後の残存がんを一掃するための術後化学療法)である。
    〇1980年代よりも前のがん治療は、がん細胞の二つの根本的な弱点を取り囲むようにつくられた。一つ目の弱点は、がんはたいてい、全身に広がる前にまず局所疾患として発生するという点だ。手術と放射線療法はこの弱点を利用している。二つ目の弱点は、ある種のがん細胞の特徴である、急速な成長速度だ。1980年代以前に発見された抗がん剤の多くは、この二番目の弱点を標的にしている。
    〇手術も放射線療法も局所的な治療法であって、がん細胞がすでに手術できる範囲や照射できる範囲を超えて広がってしまっている場合には効果がない。細胞分裂を標的にした治療法も、生物学的な限界に達する。なぜなら正常細胞も分裂しなければならないからだ。体内でもっとも分裂のさかんな正常細胞にも同様の代償を支払わせる。髪は抜け、血球は消え、皮膚と腸壁の細胞ははがれる。したがって、最新のがん医療に課された課題は、正常細胞とがん細胞とのあいだの膨大な類似点のなかから、遺伝子や経路や獲得能力のわずかなちがいを見つけ、その新たなアキレス腱に向かって毒矢を射ることにある。すべてのがんが急速に成長するわけではない。成長の遅いがんの場合、成長を標的にした薬剤が効かないことがある。
    〇分子標的療法ですら、やはり、いたちごっこなのだ。医者ががんのアキレス腱に向かって次から次へと別の矢をはなっても、がんはすぐに足を取り替え、弱点を変えていく。われわれは気まぐれな敵を相手にした終わりのない戦争にとらわれてしまっている。
    〇24種類の新薬が国立がん研究所(NCI)の分子標的薬のリストに加わった。さらに現在、数十の薬が開発中だ。それら24種類の薬は、肺がん、乳がん、大腸がん、前立腺がん、肉腫、リンパ腫、白血病に有効であると判明している。
    〇疫学者が喫煙行動をこの社会的ネットワークと照らし合わせ、数十年にわたって人々の喫煙パターンを追跡した結果、注目すべき現象が浮かび上がってきた。人間関係のサークルは、ほかのどんな因子よりも強力な喫煙行動の予測因子だと判明したのだ。
    〇腫瘍医のハロルド・バースタインは「現代のがんは、社会と科学の境界面に存在する」と述べ、がんは一つではなく、二つの課題を突きつけていると主張した。一つは「生物学的課題」であり、それに対してわれわれは「急速に発展する科学を利用し……この太古からの恐ろしい病を征服しようと努力」してきた。だが、二番目の「社会的課題」も、それと同じくらい急を要すものであり、われわれに習慣や儀式や行動への対峙を強いる。われわれが対峙しなければならないのは、残念ながら、自分の社会や自分自身の辺縁に位置する習慣や行動ではなく、何を飲んで何を食べるかとか、何をつくり何を環境に排出するかとか、いつ子孫をつくりどんなふうに年を取るかといったような、われわれの中心に位置し、われわれを定義づけている習慣や行動なのだ。
    〇記載生物学から機能生物学へのこの意義深いジャンプによって、がん医療に新たな三つの方向性がもたらされると予想される。一つ目は、治療の方向性だ。どんながんにしろ、ドライバー変異が同定されたなら、われわれはそれを標的にした治療法の探求に乗り出さなければならない。二つ目は、がん予防の新たな取り組みだ。三番目の、そしておそらくもっともむずかしいがん医療の新たな方向性は、異常遺伝子と経路に関する知識を統合して、がんの挙動全体を説明し、それに基づいて、知識と発見と治療的介入のサイクルを一新させることだ。
    〇一つの遺伝子や経路の活性化では説明できない、もっとも挑発的ながん細胞の挙動の一つは、不死性だ。
    〇いくつかの国で、がんになる人の数は4人に1人から、3人に1人へ、そして2人に1人へと容赦なく増加しつづけている。やがてがんはほんとうにわれわれにとっての新しい正常に―不可避なものに―なる可能性がある。だとしたら問題は、この不死の病に遭遇したら どうするかではなく、遭遇したときどうするか、となるはずだ。
    〇オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』の、若さと美をいつまでも失わない主人公。
    〇ウイルス(virus)  単独では増殖できないため、細胞に感染し、細胞の助けを借りて子孫をつくる微生物。DNAウイルスとRNAウイルスに大別される。中心に存在するDNAまたはRNAと、そのまわりを取り囲むタンパクの殻で構成されており、さらにその外側に、脂質とタンパク質からなる膜をまとっているものもある。

  •  上下巻となっている本書は、大まかに言うと上巻が古代から20世紀中頃まで、下巻は20世紀中頃から21世紀初頭(原書の出版は2010年)までが語られている。しかし原因が究明されるのは下巻の後半だ。つまり4000年に及ぶ苦闘の大半は、敵の正体が分からないまま倒す方法を模索していたことになる。

     がんは多くの病気と異なり、外からやってくるのではなく、内側から発生する。がん細胞は患者自身の細胞が変異したものだ。変異を起こす原因は発がん性物質や放射線被爆が挙げられるが、それらは体内の何をどう変異させているのか。

     その答えは遺伝子の特定の部分の突然変異なのだが、遺伝子の構造が解明されたのが20世紀後半なのだから、それまで解明できなかったのは当然だろう。だが、現代医療はがんの本質に迫りつつある。原因が分かったからすぐ治療法が生まれるわけではないものの、かなり希望が見えてきたと言えるだろう。

     本書の原書出版からすでに21年が過ぎようとしている。きっと最先端の技術はもっと進んでいるに違いないので、続編があれば読んでみたい。

  • 人間ががんという病とどのように対峙してきたか、がんとはどんな病気なのかを綴った壮大な上下巻。とんでもなく長いのと苦手な洋物ごつごつ翻訳でかなり時間がかかったけどそれでも面白かった。たばこ業界(酷い隠蔽工作はさすがです)との政治的な戦いや、がんの構造を誤りながらも少しずつ少しずつ解き明かしていく件は特に興味深かった。とにかく多めに切っちゃえ、とかも怖いけどそういう時代があったんだなぁ、と。がんが遺伝子の異常というのはうっすら知っていたけど、転移のメカニズムや、血管を新たに作って増殖したり、特殊なウィルス(レトロウィルス)のRNA逆転写攻撃によって発症することもあったり、なんてところはなんちゃって理系として大変面白く読めました。

  • アメリカの腫瘍内科医が書いたがんの歴史レビュー、下巻はモレキュラー・オンコロジーと、その応用で、こっちの方が専門的で、素人が読んで面白いかは微妙ですが、僕は(知っている話が多かったせいもありますが)楽しめました。上下巻とも腫瘍内科医・血液内科医は必読かと。

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