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感想・レビュー・書評
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ドイツの哲学者であるアルトゥル・ショーペンハウアーによる、読書の本質を探究している一冊。
図書や記事の質の良し悪しを考察し、読書という行為を少しでも高尚なものにしたいという思いに溢れた内容です。
筆致は偏屈で感情的ですが、主張している事柄は論理的です。
難い内容かつ一昔前のドイツを対象に書かれた本なので、身近なこととして親しみを持ちにくいかもしれませんが、 限りある人生での読書生活について考えさせられました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
訳者の解説と後書き無しではアクが強すぎて読めなかったでしょう笑。
読んでる最中は図星すぎてイライラしながら読んでました
たしかにショーペンハウアーの理想は正論。
が、悪書をも多読する時期は絶対必要と自分は考える。
なぜなら良書に出会う事や自分の頭で考えるには、まず量をこなさないといけないから。
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19世紀の天才毒舌ドイツ人が、当時のドイツ出版業界をとにかくこき下ろしつつ、本の読み方にも触れている本です。…なんてふざけた表現をしてみたものの、著者はゲーテにも高く評価された天才哲学者で、これは失礼しました…という感じです。この辺りは解説に詳しいので、本編より先に読むのもアリかもしれません。
構成としては、短編が3篇あって、「著述と文体について」というどう書くべきかの篇が一番長いです。
しかし文体は直球でガチギレしていて、なんかもう学校の先生にこういうタイプいたなぁと。しかもダメな作家の具体名を出しまくりで批判していて、何がそこまで許せなかったのか、と思ってしまいます。
著者の怒りが向かう先は商業主義の「売文行為」で、これを手酷く批判しています。それ自体は理解できるのですが、著者のこき下ろし表現の多様さはさすがで、見習いたいくらいです。しかし「へぼ作家や知性なき編纂者」「ほとんどの本は悪書」なんて言って、ほとんど出版業界にケンカを売っているレベルなのでは。
匿名で文章を批評するな、というくだりで「『われわれ』なんて一人称を使うな!『こずるい卑怯者の私』『覆面をした無能な私』だろう!」と言うのはまぁもう痛快のレベルにまで達している気がします。
「読書について」での著者の多読主義批判は、「しょーもない現代(19世紀ドイツ)の商業主義の売文ばっか読んでも仕方ないんだよ。名著を繰り返し読め!」というコトだと思うので、むちゃくちゃ多読中の私ですが、いったん気にしないことにしようかと思います。今は自分なりの名著を探し出す期間かなと。
しかし、私のしょーもないレビューは、きっとショーペンハウアー先生にかかったら「知性の欠片もない」とか言われるんだろうなぁ。。 -
とても読みやすい!そして古典という安心感!歴史の篩にかけられて生き残り続けてきた本は、やはり内容の密度が違います。本書から学んだことは下記3点!
1. 自分の頭で考えろ
読書という行為は、他人に思考を委ねることである。
たくさん本を読めば、自分の頭で考えられなくなるので、読みすぎてはいけない。本ばかり読まず、自分の頭で考えろというのが著者の主張。この主張には、半分賛成半分反対です。なぜ半分反対かというと、一部の天才を除き、ほとんどの人(私もその1人)は、知識ゼロの状態から思考することはできないからです。インプットなくして、アウトプットなしとはよく言いますが、頭の中に知識がインプットされているから、あれこれと思考できるようになります。そういう意味で、読書は思考するための知識を収集する効率的な方法だと思います。
2. 国語、母語を大切にしろ
全くの賛成です。全ての勉強、仕事、つまり全ての知的生産活動の基礎はやはり国語だと思います。国語をいい加減にしてしまうと、基礎が固まらず、結果、勉強も仕事もうまくいかなくなると思います。土台がグラグラの基礎の上に建物が建てられないのと同じように。
3. 古典を読め
やっぱり古典は大切なんですね!各分野で成功されている人、活躍されている人皆、口を揃えて古典の重要性を主張されていて、さらにその古典を書き上げたショーペンハウアー自身もその重要性を述べてるので、これは読まないといけない!と思いました!
以上3点が、私が本書から学んだことです。
早速他の古典を読んでいこう思います。
とても読みやすいのでおすすめです! -
古典はやはり良いなと感じた。名言も多かった。二度読まねばいけない。
『自分の頭で考えて手に入れた真理と洞察には、百倍の値打ちがある』
『ペンと思索の関係は、杖と足どりの関係にひとしい。足どり軽やかなら、杖はいらない。理想的な思索は、ペンなしで滞りなく進む。杖にすがり、ペンにたよるようになるのは、老いの兆しがあらわれてからである。』
『食事を口に運んでも、消化してはじめて栄養になるのと同じように、本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えることだけだ。』
『読んだものをすべて覚えておきたがるのは、食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ。』
『「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな、続けて二度よむべきだ。』 -
○いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜吞みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。
○とことん考え抜いてはじめて真に知ることができる。
○自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法(1)は、1分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。
○自分で考える人は、まず自説を立てて、あとから権威筋・文献で学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するためにすぎない。
○きわめてすぐれた頭脳の持ち主でさえ、いつでも自分の頭で考えることができるわけではない。そこで思索以外の時間を読書にあてるのが得策となる。
○読書と同じように、単なる経験も思索の代わりにはなれない。単なる経験と思索との関係は、食べることと、消化・吸収との関係にひとしい。
○どんなにすばらしい考えも、書きとめておかないと、忘れてしまい、取り返しがつかなくなる危険がある。
○少なくともその分野で高い評価を得た大家の本を読みなさい。
○金言「お仲間になって褒めたたえなさい。そうすれば、君がその場にいなくても褒めてもらえる」(ホラティウス( 14)『風刺詩』二、五、七二)に感化されて、めったなことでけなさないように。
○この「どのように」考えたか、つまり思索の根っこにある特徴と一貫したクオリティーを精確にうつし出したのが、文体だ。
○不明瞭な文章や当を得ない文章になるのは、考えがぼんやりしている、もしくは混乱しているからだ。
○精神をそなえた書き手は、一筆一筆、絵筆で描くように、どの言葉にも特別な意味をこめる。これに対して凡庸な書き手は、なにもかも機械的に置いていくだけだ。
○あらゆる文体の祖である碑銘文体の面影をとどめた文体、装飾を排した簡潔で力強い文体が望ましい。同様にこの逆、つまり書き言葉のように話そうと努めるのもいただけない。ペダンティックに聞こえるし、わかりにくいからだ。
○言葉は仲間内にしかわからない、みすぼらしい隠語に改悪されてしまう。
○書くとなれば、対話、問答であるべきだ。
○読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。
○いま大評判で次々と版を重ねても、一年で寿命が尽きる政治パンフレットや文芸小冊子、小説、詩などには手を出さないことだ。
○「古人の書いたものを熱心に読みなさい。まことの大家を。現代人が古人について論じたものは、たいしたことはない」
○私たちはみな、自分が興味あるもの、つまり自分の思想体系や目的に合うものしか自分の中にとどめておけない。
○「反復は勉学の母である」。重要な本はどれもみな、続けて二度読むべきだ。
ショーペンハウアーは非常に厳しい。自分もこのような厳しさを持たねばといつも思う。 -
手厳しいけどそのとおり。
さてそれでもなお行う読書を、自分は何と考えるか。
読書中、本から離れて自らに引き寄せた思考が進んでいくことを、最近それも良しとする。 -
なにを、どう読むか。あるいは読まずにすませるか。読書の達人であり一流の文章家だった哲学者・ショーペンハウアーが、痛烈かつ辛辣なアフォリズムを交えて紹介する知的読書法。
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ドイツ人哲学者ショーペンハウアーの読書についての心構えや批評について。何世紀も前に書かれたことなのに、まるで現代の事を書いているかのような鋭い指摘がなされている。
多読するよりも、選りすぐった読む価値のある本(古典)を最低でも2回は読んで、自分の頭で考える。本を読むということは、他人の思考に乗っかるということなので、多く読めば読む程自分で考える能力が衰えていく。
言葉を粗末にしない。遠回しに、ぼかして書かない。言うべきことは明確かつ端的に。
新刊は新しいということしか価値がない。金の為に書かれた新刊書は唾棄すべきもので、分野で高い評価を得た大家の本を読むべきである。
などなど、本に関するショーペンハウアーの考えが、強い言葉で鮮やかに書かれている。SNSで下らないdisり合いをしてる人たちに是非読んでもらいたい。 -
本書に書いてあることは現代にこそ当てはまるのではないかと思う。本屋に行くとキャッチーなタイトルで中身の薄そうな本が平積みされていますが、そのような本を見かけると、この本に書いてある「多読はするな」「古典を読め」というのを思い出します。
読書の重要性は間違いないですが、くだらない本を読んで時間を浪費しないよう気をつけたいと思います。