2017/02/11読了。
僕はこの高校バレー部員の自殺事件についてはまったく記憶がない。報道を見なかったはずはないので、知らなかったのではなく忘れたのだ。なぜ忘れたのだろう。おそらく、ありふれた構造の出来事だと思ったからだ。ありふれた構造、つまりいじめを学校が隠蔽している構造だろうと。
そんなのがありふれている世の中もひどいし、だからって忘れる僕もあんまりなわけだが、それは本書の感想とは別の話なので脇へ置く。
問題なのは、僕が被害者側の言い分とマスコミ報道の内容を鵜呑みにして、あとは憶測で判断して忘れることにした、ということだ。当時の僕の名誉のために書き添えておくと、少しは憤ったかもしれない。加害者として報道された学校と他のバレー部員たちに対して。体育会系出身を鼻にかける人々には差し引きすると煮え湯を飲まされることのほうが多い人生を歩んできたので、スポーツ部活動が絡んだ事件なら、なおさら僕に煮え湯を飲ませた人物の顔を思い浮かべて憤った可能性はある。
そんな僕が本書一冊を読んで、何を憤る資格があるというのだろう。本書が糾弾する母親ほどひどくはないが同じベクトルの人格の持ち主に煮え湯を飲まされたことはある。だから今度はこの母親に対して憤り直してよいのだろうか。あるいはこの母親を弁護したという人権派弁護士に対して。僕を騙したマスコミに対して。そう、今度は本書の内容を鵜呑みにして、今度も個人的な体験を下敷きにして。母親と弁護士とマスコミを罵り直していいのだろうか。それは他でもなくこの事件において弁護士やマスコミがやったのと同じ行為に当たるわけだが、僕がやるなら構わないのだろうか。
最近、トランプ氏についての報道で「オルタナティブ・ファクト」という言葉を初めて知って驚愕した。同時に、昔ながらの「建前」とは明らかに異なるそのたたずまいから、いかにも今風の概念だなあと感心もしたのだ。トランプ氏の当選や極右政党の台頭、ヘイトスピーチ、デマツイートや偽ニュース、フィッシングサイトやオレオレ詐欺、バカッターやネットの炎上、みんな同じ根っ子でつながっている社会現象だと僕は思っているのだが、おそらくその根っ子は、最初の報道に接してすぐ信じ、憤り、すぐ忘れ、たまたま本書を読んで憤り直した僕のような大衆の心性と無縁ではない。だから本書を読んでの感想は、ただもう自戒の一言しかない。
自戒の処方箋として本書が提供してくれたことが一つある。本書の著者が「乱用」と「濫用」の表記を近接して書き分けて目立たせている箇所がある。他にも引用元の誤字を修正せずに掲載したことを示す「ママ」の傍注も律儀に多い。
著者は「言葉」をキーにして、明確に問うていると見た。大事なことを書くときに字を間違えるやつと間違えないやつがいる、テンションの高い自己中心的な乱暴な言葉、あるいは宣伝パンフや自己啓発書からコピペしてきたような言葉を、使うやつと使わないやつがいる。どちらが信用できるやつか、と。
しかし……この「言葉」の匂いを嗅ぎ分けるスキルがほとんど特殊技能になりつつある昨今、このスキルを持つ人を既得権益層もしくは邪魔者とみなして信用しない・させないというのが今風のポピュリズムの底にあるわけなので、果たしてどこまで使える処方箋なのか、まったく肌寒い世の中になったものだ。