新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

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感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・雑誌
  • / ISBN・EAN: 4910049010679

感想・レビュー・書評

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  • 吉川真人さんの「四時過ぎの船」が読みたくて図書館で借りてきました。
    島に住んでいた浩と稔のおばあさんと、浩・稔、浩と稔の母。、、、現在(浩と稔)と過去(おばあさん)が交互に登場する組み立てで、私は少し苦手な構成ですが、じっくり読み進めた内容です。

  • 第157回芥川賞候補作、古川真人「四時過ぎの船」が読みたくて図書館より拝借。これ、いけるんぢゃないのかな。あと気になるのは温又柔氏の作品だけど。彼女もいつか絶対とってほしい。本誌は古井由吉氏+又吉直樹氏の対談もあり読み応え有号。

  • [芥川賞候補作1作目]
    古川真人「四時過ぎの船」
     主人公は30歳近くになるのに、盲目である兄と同居しその世話をすることを「言い訳」にして無職のまま、大学も中退し昼間から寝ているような男性、稔。そして物語のもう一方の軸となるのが稔の祖母佐恵子の視点である。この祖母はおそらく九州の離島に暮らしていたが、すでに他界している。稔が中学生の頃に兄は失明してしまい、それと同時期から祖母佐恵子の認知症も徐々に進行し、ついに独居していた島の自宅を離れ、福岡にいる稔の母、つまり佐恵子の娘美穂に引き取られ、施設で亡くなる。
     佐恵子が島を離れて以来数年間誰も住んでいなかった自宅へ、後片付けのため訪れた稔は、電話台の傍にあった祖母の日記の最後に、「今日ミノル、四時過ぎの船で着く」のメモを見つけ、当時の記憶を呼び起こそうとする。だが、すぐには詳細まで思い出すことができない。小説は、祖母がこのメモを残した数年前のその日の、佐恵子の行動と意識の流れを追うところから始まり、現在の稔と過去の祖母の場面とが代わる代わる現れるような構成である。だがすでに認知症に蝕まれている祖母は、自らのメモの内容さえも覚束ず、かろうじて港の方へ「誰か」を迎えに行こうと家を出るのだが、次々に過去の様々な情景が、また過去の自分の様々な思いや感情が脈絡もなく浮かんできて、時間は常にあちこちへ飛び飛びになってしまっている。佐恵子は元々はその島の外の生まれだった。網元だった祖父へ嫁いだ佐恵子は、漁師の家の生活になじめず、自分が疎外されていると感じていた。その上、唯一周囲からの期待を負っていた、跡取りの子どもを産むという「役割」も果たすことができなかった。つまり稔の母美穂は、佐恵子の本当の子ではなく養子であることが明らかにされていく。
     稔も、兄の介護を口実に定職にも就いていない自分に、繰り返し自問自答してきた。「自分はこれからどうなるのか?」と。しかし、問いは発しても答えを出すことも、深く考えることすらもしていない。思うに作者はつまり、祖母の人生と稔の人生とを、前者はすでに故人であるという違いはあるが(そしてそれは重要な違いだが)、重ね合わせて表現しているものと思われる。簡単に言い切ってしまえば、それは自らの役割、居場所を見つけられずにいる(いた)者という共通点である。
     キーワードは「やぜらしか」という方言である。これは、煩わしいとか、面倒とかいう意味と思われるが、祖母の口癖であったことを、稔は思い出す。それは兄に対して、兄を世話するということに対して、時折抱いてしまう感情であった。稔自身はそうした感情をこらえきれず口に出してしまった時はそのことを後悔もし、発言してしまったことに対して「嫌悪感」も抱いている。そして自ら悶々と悩むばかりの堂々巡りの状況もやはり「やぜらしい」ものと彼には思われるのだった。
     だが実は、生きている限り身にまとわりついて決して逃れられない「やぜらしい」多くのこと、それらこそが実は生きていること、また生きていくことそのものなのではないか、これこそが祖母から孫が受け取ったものなのではないか。小説の最後で、稔はようやく数年前、すでに孫の顔すらわからない祖母が彼に渡したものはそれだったことに気づく。佐恵子にとって、血の繋がらない娘美穂の母親になることが、彼女に居場所を与えたと言えるだろう。美穂はさらに、稔たち兄弟を生み、それは新たな「やぜらしさ:生きるということ」を生み出すことでもあった。だが、稔の兄浩は失明してしまおうとしており、一方、佐恵子には病魔が迫っており、時間が残されていなかった。したがって、彼女は稔に「代わりに兄ちゃんの目にならんといかん」と告げたのだ。四時過ぎの船が着いたその日に、その引き継ぎがなされたわけではないが、稔はその日に祖母が書いたメモから、記憶を呼び覚ましたのだった。
     この小説の、兄を支えていくことの「やぜらしさ」、生きていく上のその他の「やぜらしさ」に自らの存在意義を見出し、その重要性を再確認し稔が再出発の一歩を踏み出しかけるという結論部分は、やや予定調和的・都合主義的な印象も受ける。すなわち結局、極端に言って何も変わっていない、振り出しに戻っただけであるとか、稔の認識の仕方が変わっただけで、兄の状態に仮託して自己満足していることに変わりなく、彼自身が成長したとは言えないのでは、とも感じるところである。
     だが、祖母とその孫が、一方が死んで数年もたった時に、いやむしろ認知症であった祖母の晩年において当時にはとらえきれなかったかもしれない家族のつながりを、1枚のメモから表現している構成は筆者の技量を感じさせた。世代から世代へ、家族が伝えてくれる何かがあるというのは、個人的にも大いに共感でき、応援したい作品である。結論部分も、決して単純に稔がこれまで通り兄の介護にのみ依って立つ自分を再認識したという見方は当たらず、兄とともに生きつつ、自身の変化も予感させるものであると言える。
     例えば兄の浩の内面などは、あえてほとんど描いていないのであろうが、稔の独りよがりでないことを示すために、母や兄にもう少し踏み込んでもよかったのかもしれない。

  • 古川真人著「四時過ぎの船」読了。想いがあっちいったりこっちいったりの祖母と、無職の孫の想い。前作より読みやすいし、島の風景も浮かんでくる。こういう認知症の登場人物の物語ってこれからどんどん増えるのかな。

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