博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF) [Kindle]

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  • 19世紀から20世紀初頭にかけて編纂され、独自の編集方針によっていまだに名を馳せる『オックスフォード英語辞典』、通称OED。当時、英米全土から用例探しの協力者を募った編集主幹ジェームズ・マレーの呼びかけに最も熱心に応えたのは、ロンドンで殺人を犯し刑事犯精神病院に収容されていたアメリカ人、ウィリアム・マイナーだった。ある男の数奇な運命と歴史的な辞書の誕生をめぐるノンフィクション。


    本書は辞書編纂の物語であるのと同じくらい、南北戦争と精神医学史の物語でもある。マイナーは見ず知らずの男性を銃で殺してしまったのだが、それは戦地でのトラウマによる幻覚のせいだとされたのだ。
    軍医として参加した南北戦争の地獄のような有様と、脱走兵に罰として焼きごてをあてた経験がマイナーを狂わせた。その兵士がアイルランド人だったために、差別感情と罪悪感とが混ざり合い、アイルランドの民族独立主義者に狙われているという妄想に囚われたのだ。この説明でイングランドの民衆が納得したらしいことから当時の空気がよくわかる。それ以来、マイナーは30年以上をロンドンにほど近いブロードムア刑事犯精神病院のなかで過ごした。
    マイナーは良家の出でしかも元陸軍将校だったので、ヴィクトリア朝の監獄・精神病院と聞いて思い浮かぶヤバいイメージとは違い、それなりの特別待遇を受けていた。最上階の眺めのいい大部屋をあてがわれ、本国の弟から振り込まれる軍人年金で本を買っていた。絵画や読書を好んだマイナーは、やがてOEDのための用例探しというライフワークに出会った。
    本書のもう一人の主人公マレーはというと、貧しい生まれだが飛び抜けた語学センスを持ち、挫折しながらも遂にOEDの編集主幹までのぼりつめていく。オックスフォードから辞書づくりという無限に時間と労力がかかる面倒事を押しつけられたあわれな男だともいえる。マレーが主幹になる前にOEDの編纂は何度かつまずいており、前任者が有志から集めた用例カードはネズミに齧られたり、空き家になった司祭館に置き去りにされていたり、なぜかフィレンツェに送られていたりしたという。辞書づくりの苦労が語られる章はコミカルで楽しいけれど、著者の無邪気な英語至上主義の発露にギョッとする場面もある。
    イギリスにおける辞書の歴史を扱う第4章、第5章は特に面白い。英語辞典の誕生は仏語辞典や伊語辞典にかなり出遅れたが、そのおかげで規範主義的なフランスの辞書を批判的に眺め、OEDのように記述主義的な辞書が作られるようになったということや、カトリックのラテン語に対抗して「プロテスタントを普及させる言語=英語」とライバル意識を燃やしていたことなどなど興味深かった。OEDの方針を決定づけたリチャード・トレンチの講演――辞典編纂者は自らの権限で良い言葉と悪い言葉を決めてはならない、辞典とは単に「言語の目録」であって正しい用法を教える手引きではない――は、コーリー・スタンパー『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』で語られた現代の規範主義VS記述主義のたたかいを思いだすと感動的ですらある。
    後半は辞書編纂に合流したマイナーとマレーの友情が描かれるのだが、マイナーはいつもOEDチームが現在進行形で作業している単語を気にしていて、マイナーの素性を知る前のマレーも「彼はとにかくチームの一員として写字室の写字員と協力して仕事をしていると思いたがっている」と感じていたことが印象に残った。マイナーの精神状態が用例探しに打ちこめる程度に正気を保っていたのは辞書にとって幸運だったと著者は書いているが、OEDを通じて外界との細い繋がりを保っていたからこそマイナーの芯にあるものがどうにか折れずにいられたのでもあるだろう。その後、ブロードムアの院長が替わって特別待遇を受けられなくなり、アメリカへの帰国も却下されると、OEDに参加しようという気力も潰えてしまう。自分で麻酔無しの去勢手術をおこなうなど、性的な妄想にも苦しめられ続けたそうだ。
    著者はマイナーに入れ込みすぎて、彼に夫を殺された女性よりマイナーのほうが不幸だと言いたそうな口ぶりなのが気になる(去勢事件からイライザとの恋愛関係にまで憶測が飛ぶのもどうかと思う)が、「あとがき」で不孝なマイナーの偉大な事業の前に突然命を奪われた人間がいたことをもう一度語り直しているから良しとする。最後に置かれたエッセイ「著者の覚書き」も軽妙でユーモラスな語り口で面白かった。

  • 第102回アワヒニビブリオバトル テーマ「手紙」で紹介された本です。ハイブリッド開催。チャンプ本。
    2023.8.1

  • (2022/76)オックスフォード英語大辞典(OED)が出来る以前の英語辞書事情、OED編纂における苦労、編纂主幹のマレー氏と、精神病を患い犯罪精神患者施設に隔離されながら編纂に多大なる貢献をしたマウラー氏。辞書編纂というと、三浦しをんさんの小説『舟を編む』が思い浮かぶが、こちらはノンフィクション。やや読みにくい感じはあれど、たかだが100年ちょっと前のことだったんだと思うと意外感もあり、興味深く読める。

  • ゆる言語学ラジオで取り上げられていたので興味を持ち購入。
    当時の英語辞書を取り巻く事情や、OEDを作り上げた功労者であるマレー、マイナーの人生はドラマチックで、読み応えがある。
    ただ、翻訳がいかにも訳書という感じで読み下すのに気力が必要だった。

    偉大で、実現不可能にも思えるプロジェクトに大きく貢献した二人の存在と、その二人が交わるきっかけになった一人の男の死の関連は、ifを考えさせられてしまう。

  • 映画の補完として読み始めた
    バックボーンについて知ることでより映画作品の理解が深まった気がする

  • はっきり言って、ワタシは、辞書が、好きです。

  •  19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、OED(オックスフォード英語大辞典)の編纂という歴史的事業を成し遂げた人物の伝記。特殊な用語だけでなく全ての英単語について膨大な文献から用例を集め、解説をつけて整理するという、気の遠くなるような作業がおよそ70年もかけて実施された。

     編纂の中心となったのはロンドン言語協会のジェームズ・マレーだが、作業の多くがボランティアによって担われた。その一人にアメリカ人のウィリアム・マイナーがいた。マレーは、他のボランティアより抜きん出て多くの貢献をしたマイナーを時間に余裕のある医師だと思っていた。確かに医師でもあったが、実は殺人罪で精神病院に幽閉されている患者だった。

     本書は、OEDが編纂された時代背景、マレーの熱意、マレーとマイナーの交流、そしてマイナーの数奇な人生が描かれている。

     米国の将校であり医師であるマイナーは殺人を犯しながらもかなり丁重な扱いがなされた。精神病院を兼ねた牢獄に2つの個室を与えられ、多くの書物に囲まれて暮らしていたようだ。特に労役もなくただ幽閉されているだけの彼に時間はいくらでもあっただろう。その時間を栄誉ある歴史的事業に費やしたのだから、少し羨ましくも感じてしまう。

     しかし彼は幸福でも快適でもなかった。現在で言うところの統合失調症だったと推測されているが、当時は病気の原因も不明で治療法もなかった。長い幽閉生活のあいだに妄想や奇行は悪化するばかりだったようだ。現代であればどうなっていただろうか。

  • 日本の囚人には考えられない環境で読んでて驚いた。まさに事実は小説より奇なり。

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