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感想・レビュー・書評
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『計算において、自分が何をやっているかを「わかる」にこしたことはない。だが、まだ意味が「わからないまま」でも、人は物や記号を「操る」ことができる。まだ意味のない方へと認識を伸ばしていくためには、あえて「操る」ための規則に身を委ねてみることが、ときに必要になる。このとき、「わかる」という経験は、後から遅れてやってくるのだ』―『第一章 「わかる」と「操る」』
前著「数学する身体」もアラン・チューリングと岡潔の足跡を辿りながらもその歴史的面白さに終始することなく、読みながら様々なことを(逸脱を含めて)考えさせられる本であったのと同様に、本書も過去の偉人たちの足跡を辿りながら「思考」の根源に迫っていく刺激的な本となっている。
とはいえ、これは内田樹の唱えるところの身体性と一脈通じるものがあると思うのだが、単に「頭でっかち」志向の著書ではない。いわゆる「心技体」の分かち難い一体性にも通じる感覚に森田真生は踏み込む。章が進むにつれて「身体性」の重要さが形而上学的な意味ではなく非常に現実的なものであることが詳らかになるのだが、それは、例えば「書く」という行為がともすると「手による」自律的な運動(=思考)に思えてくるというような感覚的な経験を越えて、計算することこそ思考する生命の持つ特徴であるということが先人たちの思考の過程を解きほぐすことによって明かとなるのだ。
それを逆に捉えれば、計算することなしには片手に余る数を認識できない生物が、それを克服する過程こそが思考の始まりであるということ。思考するとは、あるいは計算するとは、どのようなことなのかについて考え続けた人々の進歩と挫折そして壁を越える過程で啓かれる新たな理解の視座を得て考察される数学的概念の広がりの限界と、世界の在りように対する認識が如何に密接に紐づいたものであるかが、すっと腑に落ちる。
前著の感想で、拙くもフォワードモデリングとその検証という過程でイデアに近づく、というようなことを綴っているけれど、本書の中で繰り返し触れられる「総合的」探求と「分析的」探求の相対性が、じわじわと相補性へ向かっていく展開にはとても説得力があると感じる。表面的な言葉だけなら同じような主張をすることは、少しばかり科学的なスタディの実践の経験者であれば言うことも可能だと思うけれど、思考の段を一つずつ積み上げてその結論に至る著者の言にはずしりとした重みがある。
最終章(計算と生命の雑種ハイブリッド)では、やや著者の現代社会に対する批判のニュアンスが濃くなるが、そこでも主張されていることは(その主張の帰結の賛否は別れるとも思うが)第四章までで展開されてきた論理と思考の発展から導かれることと齟齬はない。ともするとその主張に対する態度の違い、場合によっては好き嫌いの度合いによって議論そのものを封じ込めようとする主張がなされることも世の中には多いけれど、議論を経ることによってしか新たな地平線は見えて来ないということは肝に銘じておくべきだろう。但し、いくらResonsibillity(責任)がRespond(反応)するability(能力)だからといって、常に、思わず行動する、つまり思考するよりも先に行動するべきだ、とは思わないけれど。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
指を使って足し算をする。
計算しているという手ごたえがありますよね。
一方で、皆さんが、いま見ているスマホやPCの画面。
これは様々なアルゴリズム、つまりは計算の結果としてはじき出されたものです。
でもスマホを操作するときには、計算をしている手ごたえは全く感じられません。
全く別物としか思えない二つの営みですが、
「あらかじめ決められた規則にしたがって、記号を操作している」という意味で、同じ「計算」
なんだと、著者は言います。
計算がどのような歴史の系譜をたどってきたのか?
歴史をたどりつつ、計算という営みのてごたえを少しずつ取り戻していきたい、というのが著者の主題になります。
複素数平面とか幾何学とか専門的な数学の話も出てくるので、細かいところはあまり理解できませんでしたが、大筋は問題なく読むことができました。
詳細な紹介はしないこととして、興味深かった点をいくつか載せていきます。
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・計算能力は、人間が本来持ってたスペックではない。
数を数えるとき、一番シンプルな方法は指を使って数えること。
でも指って、一辺に全部を動かすのはいいけど、ピアニストみたいに一本ずつ自由に動かすのは訓練がいる。
つまり、指のもともとの役割は物を握ったり離したりすることであって、数える機能は先天的なものではなかった。
・数学は、記号と規則の力を借りて、 意味がまだない方 へと、さらに自由に羽ばたいていく
数学は、最初は物の量を計算するために使われた。
計算のためのツールとして、足し算・引き算などが生まれた。
そのルールに従って、「0から4を引くこと」を考えてみる。
「量の計算」という意味で考えると、0から4を引いたって、0だ。
かの天才パスカルも、0-4は0だと言っていたらしい。
でも、ルールに従うならば、当然答えはー4だ。
実世界において、-4と言われても何のことだか意味がわからない。
でもこの規則に従って考えているうちに、新しい解釈を見つける人が現れる。
「数直線」だ。
つまり、数が「量」だけでなく、「位置」 を表すという解釈が生まれた。
無意味だと思えることでも、取り組んでいるうちに新たな意味が生まれる
というのは人間の営みの真理の一つなのかもしれない。
・メタファーの犠牲者
現代の人工知能などの研究は、「計算」というメタファー(概念)を頼りに、知能や生命の謎に迫ろうとしている。
ただ、この「計算」という概念が、知能や生命を説明するのに適切なメタファーだという保証はどこにもなく、計算と生命の間には依然として大きな隔たりがある。
計算とは異なる新たなメタファーが必要だ。
・100年前の天気予報
世界で初めて天気の予測を試みたイギリスのルイス・フライ・リチャードソン(1881-1953)。
六時間分の天気変化を、みずから計算で「予報」しようとしたが、このとき結果を出すのに、六週間かかり、しかも計算結果は実際の天気と一致しなかったらしい。
そう考えると、今の天気予報が如何にすごいかがわかる。
・フレーゲは、旅を好まず、一処にとどまり、ただ近所の散歩だけを日課とした。
本書の主題とは全く関係ないですが、個人的に響きました。
旅行をすると、わかりやすく環境が変化するので、自分の状況を相対化し、メタ認知しやすくなる。僕はアメリカに1か月半留学してたことがあり、日本の治安の良さや接客サービスの質の高さなど、いろんな違いを感じることができました。
でも、「諸行無常」なんて言葉を持ち出すまでもなく、日常も変化の連続です。
その変化は比較的ゆっくりで、しかも朝→昼→夜→朝、春→夏→秋→冬→春と、周期的に似たようなことが起きるので、慣れてしまいやすい。
意識してないとその変化を見逃してしまうこともありますが、五感を集中すればきっと感じられるはず。
フレーゲは、19世紀から20世紀にかけてドイツに生きた数学者で、その功績の独創性・すごさは本書で余すことなく書かれています。
そんな彼の日課がはたから見れば非常に地味だったことは、逆説的というか、興味深いです。 -
生命体である人間と、人間が発明した計算。
計算は太古の人類が思いもよらなかった世界を拡張した一方で、私たち人間は自身の被発明物にみずからを似せようとしつつあるのではないか。
そんな問題提起がなされている。本書で紹介されていてなかでも印象的だったのが、ティモシー・モートンによる、
「過去が未来を食べている」
という言葉。「(プログラム=)過去に決められた規則を遵守するだけの機械に、無自覚に身を委ねていくことは、未来を過去に食わせることになる」
より具体的には、例えば「統計」や「相関関係」が一個人の生を蝕む問題などもこれに当たるのではないか。
次作があるなら、このあたりのことと、身体や生命との拮抗にもよりフォーカスを当ててほしいと思った。 -
人間は計算する生命である、ということを論理的に説明するために哲学と数学の関係性、哲学者と数学者の関係性を歴史的に振り返るという作業が行われている。何かがわかったような気分になるが、何がわかったのかがわからないのでもう一度読む必要がある。
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数を数える→数を操作する→概念を操作する→思考を拡張するといった人類の軌跡。非常に面白かった。読み応えがあった。数学というのはやはり奥が深い。