- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101213668
作品紹介・あらすじ
数学はもっと人間のためにあることはできないのか。最先端の数学に、身体の、心の居場所はあるのか――。身体能力を拡張するものとして出発し、記号と計算の発達とともに抽象化の極北へ向かってきたその歴史を清新な目で見直す著者は、アラン・チューリングと岡潔という二人の巨人へと辿り着く。数学の営みの新たな風景を切りひらく俊英、その煌めくような思考の軌跡。小林秀雄賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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「数学する身体」魅惑的なタイトルです。
著者は、京都に拠点を構え、独立研究者として活動する数学者だそうです。「数学の演奏会」なるライブ活動で、数学に関する彼の想いを表現しています。そして、本作で最年少で小林秀雄賞受賞されています。(小林秀雄先生の著作を理解できたことが無いのですが)
「はじめに」において、この作品を 数学にとって身体とは何か、ゼロから考え直す旅とします。まず、著者の文章力に驚きます。どなたかが、悟りを開いているようなと形容されていました。明確で簡潔。脳と文章が一致しているような印象です。(あくまで個人の感想です。)
第一章では、数学する身体として、数学は身体を使ってきたことを説明します。視覚で少数の数を認知する。体の部位を使って物を数える。(手の指10本で10進法⁉︎)そして、それらの限界から 数字や計算など道具の発見に繋がります。
第二章では、計算する機械として、数学の道具の進化の歴史が語られます。古代ギリシャの言語による証明から、算用数字の発明、記号•代用数字の利用と長い時間をかけて、世界の各地でそれぞれの数学の道具が発展していきます。そして、計算が追いつかなくなり、概念•理論への進化となります。
第三、四章では、著者が啓蒙する、岡潔氏という日本を代表する数学者への想いと、その実績について解説されます。まず、身体の中の脳へ科学的アプローチしていきます。そして、岡潔氏の情緒に対する考え方を丁重に扱っていきます。身体の心「彩り輝き動き」を喚起する言葉として「情緒」を表現に使います。情緒は個々の身体に宿る、とも。
著者は、この岡潔氏の日本的情緒を身体に備えることを望んでいるのかと思う。
終章で 岡潔氏の言葉を取り上げる。心になり心をわかる 心の世界の奥深くへ分入る。という、西欧的な心作る心を理解するとは違うアプローチに自身も惹き込まれているようです。
ライブ映像がネットにありましたので視聴させていただきました。若くきらめく知性でした。小中学生にも是非ライブしてもらいたい。数学だけでなく、あらゆる学びに共通すると思いますので。
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一風変わった数学への手引き書である。どこか哲学書のような雰囲気も漂う。数学史のような記述もあれば、数学に関するエッセイのようでもある。
だが各々の断章は確実に1つの命題に結び付けられる。
すなわち、タイトルの「数学する身体」に。
数学は不思議な学問である。1から始まり、推論を重ね、数学世界を構築していく。数論、確率、幾何、さまざまな分野が、それぞれの用語で論理を組み立て、視野を広げていく。それらは世界を普遍的に捉えることを目する。
けれどもそれを作り上げている人間は、有限の存在である。自分が何者かわからずに生まれ、最終的には死んでいくのが人間である。ある意味、あやふやな存在が、原点から出発して、周囲を少しずつ認識し、仮定から推論を重ね、確固たる世界を築き上げようとしていく。
数学は身体から生まれる。
身体が数学をする。
数学的真理は普遍的と見なされるけれども、それを生み出すのははかない身体である。
数学は身体を超える力を持ちつつも、身体なくては生まれず、また発展しえないものでもある。
本書では、こうした数学と身体の関わりについて、考察を重ねていく。
特に大きく扱われているのが、コンピュータの父と呼ばれるアラン・チューリングと、在野の数学者・岡潔である。
チューリングは、ドイツ軍の暗号エニグマを解いたことでも有名であり、人間を演じ切る機械を作ることは可能かと問う「イミテーション(模倣)ゲーム」の命題でも知られる。チューリングは分析の人だった。人の心をタマネギの皮をむくように1つ1つ解き明かしていく。むいてむいて、最後には何が残るだろうか。そうした形で発展していったのがチューリングの研究の仕方である。
対して、岡は数学を生きた人である。というよりは、彼にとっては生きること自体が命題であり、その1つの発露が数学であったにすぎないのかもしれない。岡は「情緒」という言葉を好んで使った。
数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に「理解」しようとするのではなく、数学と心通わせ合って、それと一つになって「わかろう」とした
著者もまた、チューリングの姿勢よりは、岡の「生き方」に魅かれているようにも見える。
著者は武術家の甲野善紀とも親交があり、そういう点からも、「身体」へのまなざしが感じ取れる。
そうして生み出される著者自身の数学がどのようなものなのか、本書からはうかがい知れないのが若干残念なのだが、それは読み手である自分自身の力不足なのかもしれない。
不思議な広がりを持つ1冊である。 -
おもしろい。
「わかる」という感覚。対象に没入しきって、「体得」するしかない。
この「わかる」という言葉について繰り返されるところから、「わかる」ことの難しさを感じた。
数学の勉強に、と思って読んだ。
数学の勉強にはならなかったが、「わかる」という感覚については自分自身常々考えていたこととマッチしていた。 -
高校まで、数学が苦手だった。
なんか理屈っぽいし、計算もキライやし、概念とか定義とかようわからんし、証明とかややこしいし、自分には馴染まないものだと思っていた。
大学に入って文系に進み、数学と離れたことによって、逆にちょっと恋しくなって、一般教養で数学の授業をとってみたり、大人になってからこういった本を読んでみたりしている。
正直あんまりわからなかった。やっぱり自分の数学のレベルが低すぎて、なんというかぴんときていない部分が多かったように思う。(もちろんこの本は数学に明るくない人でも読めるように書かれているけれど。)ひとえに私の理解力の低さによる。。。
でももしかして、もういっかい読んだらもっと理解できるようになるかもしれない。。自分のなかでまだ消化しきれていないけれど、、、でもなんというかヒントみたいなものはいろいろあったように思う。
この本を読んで、数学と身体は切っては切り離せないものなんだとわかる。なんとなく、数学って頭で考えて考えてすることだと思いがちやけども。必ずしもそうではない。
そもそも心はどこにあるのかっていったら、脳だけじゃなくって身体全体にやどっているものだし、身体なくして数学はできない。
数学と計算もまた違うもので、計算は機械でもできるけど、数学は人間しかできない(いずれできるようになるかも…??チューリングはできると思っていた)。
なにがちがうかといったら、それは岡潔によると情緒ってことで、機械に情緒を持たそうと思ったらそれはなかなか難しいだろうな。
情緒っていうのは人間の礎みたいなもので、松尾芭蕉は俳句を通してそれを表現した。岡はそれを数学という方向から探ろうとした。(低理解力)
岡潔の考え方はめちゃくちゃ興味深いなと思った。ちょっとスピリチュアルやとも言えるけども、「自我」と「物質」を中心に捉える現代の人間観、宇宙観に対して新しい人間観、宇宙観を作り直そうとした(p175要約)岡潔、すごいなあと思わざるを得ない。
人間は面白いな。
なんとなく抱いていたクールな数学のイメージを変えるような、美しく温度のある文章だった。
数学でここまで扱えるんか、というおどろき。学問は面白いなあ。
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(2018年4月のブログ内容を2020年11月に転記したものです)
某大学の生協にたまたま立ち寄ったときに平積みになっていた本です。
数学は身体のどこで行われているのか、これが森田氏の問いかけです。森田氏は数学史や脳科学の知見を紹介しながら次のようにまとめていきます。
○ 数学の客体化と岡潔
まず、人間は周囲の環境にあわせて、今使える道具を最大限に利用して(指だったり紙とペンだったり)数学しています。古代ギリシアでは『原論』に見られるように図形や道具と「数学する自分」は分かちがたく結び付いていました。二十世紀になって、ヨーロッパ数学は私たちの身体から次々と数学の要素を切り出していきます。例えば、公理的な方法によって「数学するという行為」が、チューリングのコンピューターによって「計算するという行為」がそれぞれ客体化(研究対象になるということ)されました。
一方で、同時代の日本の数学家、岡潔は「情緒」によって数学した人だと紹介されます。「情緒による数学」とは、「客体になりきる」、つまり「数学になる」ことによって数学するということだと、森田氏はいいます。森田氏は岡潔のよく引用した芭蕉の句を取り上げます。
聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水
外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき。ふと我に返る。「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説をする。
この部分は、岡潔の数学観をよく反映した部分であり、筆者が共感し、文系の身から数学科に転身したことの本質にもなっていると思います。
○ 2通りの「わかり方」を使って考える
私たちは研究対象を客体化して「神の視点」でとらえようとしがちです。もちろん、論理的に組み立てる際にはその行為が不可欠ですが、人生を生きていく上では、車の両輪として「主体として没入する」ことも同様に大事なのだと、改めて感じさせられました。感覚に没入してふと我に帰ったとき、その全体像が「わかる」という経験は大なり小なり、何かに没入した経験があれば、みなさん感じたことがあるのだと思います。
これまでこのブログで紹介してきた、近藤麻理恵氏の「ときめき」、あるとき「自己本位」に気づいた夏目漱石はまさにそのような没入による「わかり方」の結実したものなのでしょう。
わたしが絵画を見るとき、絵画の中に入ってしまったかのような錯覚に陥るときがあります。悲しいようなあたたかいような気持ちになってふっと気づくとまた現実にいる。そのような「わかり方」を人生において充実させ、一方では、数学を1から組み立てるようなわかり方も大事にしていきたい。
行為と行為する身体が「互いに互いを編みながら、新たな風景を、生み出し続ける」、そんな体験のなかにわたしも身をおきたいと思いました。
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数学と哲学はもともと近い関係にある、とは昔からよく言われることだが、それがつまりどういうことかを読者にそれなりのボリュームでわかりやすく(文系寄りに)提示している本に初めて出会った。あとがきはややナルシスティックな書きぶりだが、本文は難しいことを一般読者に過不足のない言葉で説明しておりすばらしい。
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数学から一番縁遠いと思っている自分が、この本に魅了された。岡潔という巨人に導かれながら、著者はこころに迫ろうとしている。文庫174p
聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水という道元禅師の和歌を岡潔は次のように読み解く。外で雨が降っている。前肢は自分を忘れて、その雨の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識に上らない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。
森田は、それを次のようにとらえる。自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていいたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。
なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理によってわかるばかりではなく、情を通わせ合ってわかることができる。他(ひと)の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。
ここで展開される「わかる」とは、日々自分が行っている訪れる人の話をひたすらに聞く、そのことで話す人と私との間で、言葉を超えて動かされる情が共有されたときにお互いに「わかる」「わかられた」と感じられる営みにつながっていると思った。 -
数学者が書いたエッセイ。岡潔が書いた芭蕉の感覚を、機械のアルゴリズムに対する自然や人間の瞬時の計算として説明されてるのが新鮮だった。
人類は、座標と数式を道具として使い改良して概念を広げながら世界を捉え続けているけど、数と記号がたまたま人類にとって使いやすかったのであって、もしかしたらその道具では拓けない領域もあるのかもしれないし、また改良していくのかもしれない。どっかで映画『メッセージ』みたいに、地球外生命体に概念を授かることもあるのかもしれない。
普段、うまくコンピュータに仕事させられなくてもどかしさを感じるけど、諦めちゃいけないな(感想) -
アランチューリングと岡潔を題材に数学における身体性を語る本。実践者の言葉という印象を受けた。その領域まで到達するには、やはり実戦しかないんだろうな。