- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101213668
感想・レビュー・書評
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【数学する身体】
森田真生著、新潮社、2016年
著者は1985年生まれだから10歳年下の33歳の数学者。
東大文二在学中にベンチャー企業を設立するためにシリコンバレーに行っていた著者が、戦中戦後に天才数学者と言われた岡潔の本を読んで数学に目覚めて「数転」(文系から数学科に転じる)した著者。
もともとが文系だけあって、文章がとにかくうまい。
人間が数学というものをどのように作ってきたのか、がとてもわかりやすく書かれている。
例えば、僕らは数を数える時に「10」を一つの単位としていることに異存はないだろう。これを「10進法」と呼んでいる。
では、なぜ「10」が基本単位なのだろうか?ということがこの本には書かれている。
そんなこと、考えたことも無かったが、森田は以下のように説明する。
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指を使って数えるのもそうである 。指はもともと 、モノを掴むために使われてきたのであって 、数えるための器官ではない 。実際 、人間の長い進化の来歴の中で 、 「数える 」必要に迫られることはごく最近までなかっただろう 。だからこそ 、いざその必要に迫られたときには 、それまでモノを掴むために使っていた指を 「転用 」するほかなかったのだ 。あくまでその場凌ぎの方法だから 、これにもしわよせがある 。普通に指を使って数えると 、十までしか数えることができない 。だから 、 「十 」が数えるときの単位として定着した 。無限にある数の中で 、 「十 」が特別扱いされなければならない数学的な理由など 、どこにもないのにである 。実際 、コンピュ ータの中で数字は 、二進法で表現される 。何と言っても 、二つの記号だけですべての数を表せるのが魅力である 。その点 、二進法は十進法よりもはるかにエレガントだが 、世界中の大部分の人は十進法を使う 。それは 、身体を使って数を扱う人間にとって 、十進法がたまたま運用上 、もっとも合理的であったというだけのことである 。
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この他にも、第二次大戦中にナチスドイツの最強暗号といわれた「エニグマ」を、解読する方法を編み出したイギリス人の天才数学者チューリングのこともページを割いて紹介されている。チューリングはその後、それまでの「人間が行う計算」から「計算そのものを行う計算」という概念を打ち出して、それこそがコンピューターの基礎理論となったことなどを紹介する。
今こうして、フェイスブックを通じて読書日記をUPすることも、インターネットで世界中にシェアできることも、まさにこのチューリングの発想から始まったことだ。もっと言えば、現代社会の殆どがチューリングの発想から始まっていることに驚嘆する。
高校にいると「数学なんて、役に立たない」というセリフを聞くことがままあるが、現実は的には「数学の恩恵を得ない生活は成り立たない」ということだ。
6割くらいしか理解していないかもしれない。
でも、むっちゃ面白かった。
せっかくの夏休み、高校生は背伸びをして、こういう本に挑戦してほしい。
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岡潔とアランチューリングという2人の数学者を引き合いに出しながら、「考えること」に関して向き合った本。考えるということは、個人の脳の中では完結せず、脳から身体へ、そして公共へと拡張されることによって実現される行為であるというのが要旨だと読み取った。
・古代ギリシアより、数学をするには「証明」という思惟の公共性が必要とされた。内にてひとりぼっちで思索にふけるのではなく、証明という外部表出によってはじめて思惟たりうるという考え方。
・ハイデガーも言っている通り、学ぶという行為は、すでに知っているものを知ることである。
・いかなる生物も、客観的な「環境」を生きているわけではなく、自分の主観に基づいて再編集された「環世界」を生きている。その環世界の中で、思考と行為を繰り返し、「自分の思惟」が完成されていく。
・岡潔においては、何かに取り組むことというのはそのものと主客二分されずに一体となるという瞬間が必要だと語る。 -
数学
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岡潔と甲田善紀師に深く影響を受けている著者・・そういえばタイトルがそうだ・・
[more][more]<blockquote>P18 スービタイゼーション=3個以下の者の個数を把握するときには、それ以上の個数を把握するときとは違う、固有のメカニズムが働いているらしい。人間は何らかの方法で3個以下の物については数えなくてもその個数を正確に認識できるのだ。それ以上になると数える必要が出てくるのである。
P25 包丁を使うためにはまた板や砥石が必要であるように、ある道具を使っていると、その道具を使いやすくするためにまた新たな道具が生み出される。そうして相互に依存しあう道具のネットワーク、いわば「道具の生態系」が出来上がっていく。数字の場合も同様である。道具としての数字をますます使いやすくするために、新たな道具や技術が開発される(例:筆算)
P38 物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりした境界はないのだ。物理世界のなかを必死で生き残ろうとするシステムにとっては、まさにWhatever Works, うまくいくなら何でもありなのである。設計者の居ないボトムアップの進化の過程では、使えるものは見境なく何でも使われる。結果としてリソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別があいまいになる。
P53 数学は身体的な営みであり、歴史を背負った営為である。数学にも数学の過去がある。
P103 数学的思考はもちろん計算ばかりではない。言葉では言い表せないような直感、意識にも上らないような逡巡、あるいは単純にわかること、発見することを喜ぶ心情、そいしたすべてが「数学」を支えている。だとしたら「計算する機械」と「数学する機械」の間には、あまりにも絶望的な距離がある。(だが)チューリングは必ずしもそうとは考えていなかった。
P135 わたしたちが数字について考えたり数字を使って計算しているときには、決して純粋に抽象的な「数そのもの」を認識できているわけではないのである。脳は数量の知覚を、サイズや位置や時間などの、数とは直接関係のない他の「具体的な」感覚と結びつけてしまう。それは、数字を知覚するためだけに進化してきたわけではない脳を使って数字を把握しようとしていることに伴う、いわば副作用のようなものである。</blockquote> -
時間があれば
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数学が何かというよりは
数学とはどこにあるのかという問いに近い本。
全体的に論旨はやわらかく、妥当なところだとは思うけれど
正直に言って小林秀雄賞という名前からあの人の圧力をイメージすると物足りない。
(ま、本人は別にそれに寄せるつもりもないんだからいいんでしょうが)
もう少し、一歩ずつ踏み込んでもいいのだけれど、
それは数学者らしいはにかみなのだと思う。
彼らは真理や公理を崇拝するので近づきたいと思いながら
急に睨みつけてしまうような無作法だけはしまいと気遣う者たちではあるから。
そうやって、数学と心を通わせるということは
世界そのものと心を通わせることである。
個人的には人間の条件に関して無前提のものがありそうなので
おそらく突き詰めれば僕はそこで反発することになるだろう。
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チップは回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、いわばアナログの情報伝達経路を進化的に獲得していたのである。
物理世界の中を進化してきたシステムにとって、リソースとノイズのはっきりした境界はないのだ。(p.38)
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とある電子回路をコンピュータの自己学習によって最適化させた時の描写である。コンピュータの感受性というものもあり得そうな感じで面白い。
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ダニの比較的単純な環世界とは違い、彼女の環世界は外的刺激に帰着できない要素を持っている。それをユクスキュルは「魔術的(magische)環世界」と呼んだ。
この「魔術的環世界」こそ、人が経験する「風景」である。(p.129)
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動物の生態学などで、ここについては現在異論を差し挟めるはずである。
これが人間の特権でないことを認めてから先に進めないといけない。
というか、僕としては人間概念は解体したいのだよなぁ。 -
数学することと生命活動を営むことの間の関係性を,数学の歴史を繙き,チューリングと岡潔の生を顧みることにより明文化する.明確な解が存在するかも分からないが,何はともあれやってみて,それから思考すればよいではないか,という姿勢は,研究者に通底する.
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数学と数学者の話ししか出てこないのに、爽やかで清涼な残り香。なんとも不思議なエッセイだった。
大学の教養課程で「数学」の授業が「論理」についての授業だった時におぼえた解放感を思い出した。本書は言葉をつくして「考えること」「考える手続き」「思考の道具」「考えたことを共有する方法」など思わぬところで「生きることと数学」がつながっているのだと語りかけてくれる。
素晴らしい読書体験だった。 -
快著である。チューリングに至る、身体性にからめた数学史のさらい方に唸るものがあるが、岡潔を通して、逆方面から数学を大きく、深く写し出した思索も見事である。文も美しい。