ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論 (星海社 e-SHINSHO) [Kindle]
- 講談社 (2021年7月26日発売)
- Amazon.co.jp ・電子書籍 (229ページ)
感想・レビュー・書評
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wordの白い画面が怖い。共感しかない。
物書きをなりわいのひとつとする4人が、自分がどんなに書けないかを互いにさらしながら、いかにそのような状況と苦闘しているかを語り合う。これが最初の対談。
最初の対談と次の対談が3年くらい空いているのがよい。その間の4人の執筆態度に関する変化までが克明に明かされる。
たいへん参考になった。
書くという行為は、へたするとあらゆる規範で自分を縛り、身動きできなくさせる。では机の前に座ってはい執筆、ではなく、メモやらアウトライナーやらあらゆるツールを活用して、クオリティはどうでもいいからとにかくアウトプットし、それを組み合わせたりブラッシュアップしたりして原稿を作れば、白紙に真正面からぶつかっていかなくて済む。
苦闘の末にかろうじて手に入れた、いわば「迂回の知恵」が、四者四様に紹介されているのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
予感を超える、凄い本だった。ライティング、つまり「執筆」、「言葉を書く」について、4名が、いちいち立ち止まったり寄り道しながら、哲学している苦闘と脱皮の記録。
即実践は難しいが、「言語自体が他者である(言葉を書くということは他人と作業するようなもの)」「偶然性に身を置いて書く(他力を受け入れる)」「賭けとして書けばいい」「単なる無駄、単なる内容はない。中間からはじまる」など、ものを書く際に背中をおしてくれる金言に溢れている。 -
【書くことの本質を解き明かす執筆論】
この本は、4人の著者それぞれの視点から、「書くこと」の本質と、執筆における様々な悩みや障害を哲学的に探究しています。
哲学者の千葉雅也は、書くことの根源的な問いを投げかけます。庭園研究者の山内朋樹は、自然との対話から書くことの原点を見出そうとしています。読書家の「読書猿」は、読書体験から執筆の喜びや困難を語ります。NPO代表の瀬下翔太は、編集の現場から書くことの実践を提示します。
それぞれの執筆論は独自の視座からなされており、相互に対話しながら、「なぜ書けないのか」「書き続けられないのはなぜか」といった執筆の根本問題に迫ります。哲学、自然観、読書体験、編集実践といった異なる領域から、書くことの本質が多角的に解剖されていきます。
本書を手に取れば、単なる執筆テクニックを超えて、「書くこと」そのものの深淵に触れ、執筆の行き詰まりを打開するヒントが得られるでしょう。書くことに悩む全ての人に、新たな視点と気づきをもたらす一冊です。 -
大学准教授や哲学者、ディレクター、ブロガーなど執筆を生業とする四人が、書くことの難しさや悩み、それに対しどう向き合っているかについて書かれた本。大きく二回の座談会があり、また一回目の座談会の後にどういった学びがあったかについて、実際に8000字の文章をそれぞれが「文章を書く」ことで語っている。
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書けない苦しみを抱いている人には、ぜひ読んでもらいたい。
書かずに書く、諦める、という言葉でまとめることもできるけど、その結論までに至るプロセスや赤裸々な悩みを追体験することで、共感すると同時に、苦しみを抱えながらも書くこととは何かを考えられた。 -
もともと文章を書ける人がより良い文章を目指すための作文術・執筆術ではない。
書きあぐねて手が止まってしまう苦しみとどう向き合うかを中心に、4人の著者がそれぞれの悩みやその対処に関する経験を語る。
その苦しみの中での試行錯誤のプロセスやその帰結はとても共感できるし、参考にすべきところが多い。
ただし、4人の筆者がいずれもいわゆる人文系の文章を書く人であることは相応に割引く必要がある。おそらく彼らが求める文章というのは、呼吸をするように文を書いたり、思考と執筆とが不可分に結びついたり、執筆が思考を駆動したりといった、ある特定の文化に基づいている。
しかし、大半の人、とくにホワイトカラーがその実務において書くことを求められる文とは、もっと事務的でもっとそっけない文の羅列のはず。人文系が求める文章とホワイトカラーに求められる文とは、書くべき内容もその姿勢も大きく異なっていて、そこは埋められない溝がある。
ホワイトカラーための事務的でそっけない執筆術、というものがあっても良いと思う。 -
最近読んだ新書のなかでも、抜群に、面白かった。座談会のなかに原稿書きをはさみ、またそれについて座談会する、という構成も良く、書けない人のための本だか、私のような書かない人(読書専門)の人間でも楽しめた。作家さん、決して楽に書いているとは思わないけれど、やはり苦労されてるんだな。。。と。これから、私も書く側の人になってみたい、、と思いました
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- 書くことは結局のところ自分自身と向きあい、その限界を認め、 諦めることだし、これまでに受けてきた傷やわだかまり続けるしこりも含めて許すことだ。
- 文章を書くときに構えてしまうことを突破するために、「そんなの書いてるうちに入らない」くらいの雑な書き方であっても書いてしまえばいい。
- 結局は幼児性を捨てて、「諦め」をどれだけ前に持ってこられるか。
- 白いページへの恐怖、枠がないとかえってフリーってできない。
- 必ず難癖をつけてくる人や、逆になにを書いても褒めてくれる人を頭のなかで召喚して、その人が言いそうなことを実際に書いてみる、尊敬する書き手がもし自分の原稿を読んだらなんて言うだろうか、とかモノマネしながらかく。
- 頭のなかで選択肢をこねくり回すのではなく、具体的に書いてしまうことで、必要ない選択肢が自然に切られていく。
- 立ち止まることなく、欠落も重複も 厭わず書き続けること、読み手に伝わるようにとか、分かりやすくとか、印象深くとか、そんなことをすべてあきらめ、ただ自分が書こうとしているものが一体何なのか、それを知るためにだけ書き続けること。
- 同じような内容のページをまとめない。それだけの頻度で思いついたことを重く見るからだ。繰り返し考えたのなら、それだけ自分にとって意味があることなのだろう。
- ヒトとしての成熟が、「自分はきっと何者かになれるはず」と無根拠に信じていなければやってられない思春期を抜け出し、「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れるところから始まるように(地に足のついた努力はここから始まる)、書き手として立つことは、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける) はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けるところから始まる。
- 外部に出してしまったなにかを見て、はじめてほかのことや次のステップについて考えることができるようになる。外部化されない思考は堂々巡りを繰り返す。思考は外部化のプロセスではじめて線形化し、繰り上がる。
- すでになにかが書かれている状態から書きたい ということ、つまりは執筆を可能にする客観的な制約をいかにしてつくりだすかということ。
- ちゃんとしなければという強迫観念からの解放、生産的な意味でだらしなくなることを目指す。チマチマした「べき」を気にせずにとにかく書いてしまえ、出てくるものを出てくるままに書いてしまえ。 -
p.2021/8/6