- Amazon.co.jp ・電子書籍 (212ページ)
感想・レビュー・書評
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「働く」ということがもつ、現代の問題点をカジュアルに書いてくれていて、色々なことに興味の種を蒔いてくれるようでした。
過去の歴史からブルシットジョブ論まで、色々な考えが交錯するが、それぞれの主張は整理されていて分かりやすいのが良いです。
この中で紹介されている事例や参考にした本で、気になったものを読んでみようと思いました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
栗原康を読むのは「はたらかないで、たらふく食べたい」に続いて2冊目。あれでファンになった。
自分の話は控えめで、それよりもアナキズムの紹介と、資本主義がいかに奴隷制と同じであるかの解説がメイン。
書いてあることはとてもおもしろいし共感するが、気になるのは文体。やや上滑りしている印象。「はたらかないで〜」のときはそれほど思わなかったし、むしろこの内容に合っている文体だとも感じたが、今作はちょっとうっとうしかった。
例えば、あるひと段落を基本「だ・である」で書き、その段落の締めに「シーユー」「やったぜ」「ヤバいよ」「いくぜ、ラッダイト」などノってる感じのボケを書いてくるのだが、これがあまりに多すぎてちょっと滑ってる。小ボケを挟むのはいいのだが、そのやり方が一辺倒すぎて食傷気味になる。
著者の語るアナキズムはとても魅力的だし、生きる力を取り戻せ!という気になってくるが、あくまでも軽めのエッセイゆえ、深いところまで突っ込んだ内容ではない。だからアナキズムの実践に対する様々な疑問も出てくる。例えば、その自由と引き換えに安穏な暮らしが遠ざかる部分も出てくるのでは?とか思う。このあたりは、もうちょっとわたし自身が勉強しないと何とも言えない。ただやはり、とても魅力的な言説である。
別の話になるが、彼の言う「非対称的な闘争」は、先日読んだ千葉雅也の「現代思想入門」に頻繁に出てきた「二項対立を避ける」話と非常に近しいと感じた。千葉雅也は、アナキズムをどう考えるだろうか。 -
思ってた感じと内容は違ったが(筆者の経歴も想定と離れていて面白かった)
思想の基底は一貫を保ちつつ、テーマは幅広く
浅学の身ながら見聞きした素材を即物的に紹介されているのが実践の1つとして有意に感じた。 -
資本主義の世の中で、働き働かされている自身の現実を、自分で選択のうえのことだと思いこまされている姿を、様々な経験や知識を元に露わに現出しようとされています。その現実は、思考の深くまで疑問を持たないように、型にはまらせるところがあるからか、著者の書き方も型からはみ出すように勢いのあるものになっています。読みながら、その奔流にさらされながら、自分の現在の姿に意識を向けざるを得ないようになっていきます。奴隷状態がどのように生まれたのか、私達が必死に働かないといけないと思わされているのは何故なのか、誰に操られているのか。過去のそんな束縛しようというものに対して抗った人々の物語を通じて、「サボる」ということのイメージが出来上がっていきます。ふざけたような文体に、過去の哲学者の言葉が基礎付けられて、はっと気づかされるところがありました。仕事や組織のために犠牲になることから、思ったほど貢献できるところは無いのだと冷静になるために。
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2022/4/13
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文体が軽くて読みやすいが,かなり教養のある方だと思う.
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「いかにサボるか」が私の労働信念であるが、その見地から、タイトルに惹かれて手に取った。怠惰の勧めを期待していたが、読み進めていると、以前読んだことのある『アナキズム』の著者のものであった。『アナキズム』を読んだ時には、「とんでもない」「いかがわしい」内容に驚いたが、著者の作風にも慣れてきたのか、落ち着いて読み進めることができた。中身としては、日々著者が感じ、考えたことをつづったものにしか過ぎない。真摯に考えている様子は、「敵ながら」あっぱれという感じだ。世の中には、自分の思想を「正義面」して振りかざす「鬱陶しい」輩が満ち溢れているが、本著者の姿は「潔い」し、首尾一貫している。でも、こんな人ばかりであったら世の中どうなるのか。そんなことにかまわないのが、アナキズムなんだろうな。敬意をもって本書は星一つ。
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【生き方】サボる哲学 労働の未来から逃散せよ/ 栗原康/ 20211011/ (65/905) / <286/150129>
◆きっかけ
・タイトルにひかれて
◆感想
・難しかった、期待していたイメージとは違って途中で読むのをやめた。
・ただ、以下アマゾンのコメントは全く同感。サボるというと否定的なイメージあるが、心の自由(身体・時間的な自由もそうだが)を手に入れることに大切なことではないかとも思える。但しそれは人によって程度が異なる、生き方の問題だから、それでいいのではないか。
・いずれ再読したい
◆引用
===qte===
私はつねづね、職場の同僚たちを見ながら、次のように考えてきた。
「どうして、そんなに真面目に働くのだろう。イヤイヤ働くのなら、わからないではない。食うためには、働かざるを得ないからだが、何もそこまで、自分から積極的に働く必要はないではないか。きっと、労働の美徳というきれいごとを刷り込まれて、それを、優等生的に信じ込んでいるんだろうな。それと、他に趣味らしい趣味がないということ。だからこそ、労働の現場が、より良き人生を達成するための舞台になってしまっているのだろう。そこで優秀な人材となり、高い評価を与えられて、高い地位と給料を保証されるようになれば、それが、恵まれた人生なのだ、とイメージされているのだろう。
たしかにそれも、一つの生き方であるとは思うけれど、いかにも社会が与えた建前的なストーリーを、鵜呑みにし、盲信したものでしかない。
適当にサボったほうが、楽に決まっているし、なによりも他人の思惑どおりになるのではなく、自分の趣味やペースを少しでも確保できるからだ。
もちろん、完全にこっちの思いどおりにはいかないが、それは給料をもらっている以上しかたがない。だが、所詮、給料分の仕事なんてものの目安は恣意的なものなのだから、なるべく働かないで、かつ、サボってる思わせないで、効率よく給料をもらうのが、被雇用者の側の、正しい働き方だろう。弱い立場にある被雇用者は、ゲリラ的に、したたかに生きなくてはならない」
つまり、「サボる」べきだというのが、私の考え方なのだ。
だが、ここでいう「サボる」というのは、「サボタージュ」という言葉がイメージさせるような「積極的な抵抗行為」のようなものではなく、文字どおり「サボる」である。
例えば、「手を抜く」などのような、消極的なイメージを持たれているような、「サボる」である。日本語の「怠業」に近いイメージだ。
要は、私としては「(社会における)イメージの支配」から、自由でありたいのだ。
「よく働く人」「良い仕事をする人」「労働に生きがいを感じている人」が「悪い」とは言わない。そこに、真に、自分個人として意味を見出し、それを積極的に選びとっているのなら、それは大いに結構で、あとは「その選択を、うまく利用されたり、搾取されたりするなよ」と注文をつける程度であって、それを否定する気はない。一一そして、このあたりが、私が「アナキスト」ではない所以であろう。
===unqte===
◆引用
・労働とは時間の支配に他ならない
・自発的服従/フーコー、パノプティコン(一望監視施設)
・人間が労働力商品として扱われている
・もしまわりのを気にしてやりたいこともやらなければ、その人は社会の奴隷だ。カネの奴隷だ。むしろ自分のことは自分でやる、自分の偉大さは自分で讃える。徹底的な個人主義、生の拡充の一側面でしかない。 -
近所の野良猫の生死から、18世紀の女性海賊、親鸞まで。縦横無尽に歴史を行き来しながら、アナキズムが闘っている事は何か?を、ラップを口遊むような粋なステップで語り切る、実は知性溢れる一冊。
バカな感想だけれど、どこかカッコいいのだ。さらけ出すんだけれど、知性が光る。そんなセクシーさ。哲学って、押し付けるものではなく、魅了するものなのだと、改めて思い知った。