他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書) [Kindle]

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  • 現代の終末を意識した医療と人間の関係を考察することで、人はどのように生きるべきかという究極的な問いにまで届く著作となっている。一部・二部・終章の構成で、注釈は各部間に掲載される。本文は約240ページ。

    第一部では「リスク」をテーマに、どのようにして私たちのなかにリスクへの実感が形成されるかを確認していく。ポイントになるのは「近い=経験」と「遠い=経験」として提示される概念だ。現代においては主に科学的な知見を背景とした「遠い=経験」が重視される。その一方で、相対的に私たちの直接的な感覚に依拠する「近い=経験」がないがしろにされている。例として狩猟採集民の慣習や、BSEパニック、コロナ禍における有名芸能人の死などを参照し、それぞれへのイメージを助ける。「ゴンドラ猫」の実験結果には、「遠い=経験」に浸りきってしまうことへの恐怖を抱かされる。

    第二部では、現代における病いや死との向き合い方について考察を重ねたうえで、今の社会に共有される人間観を三つに分けて提示する。「自分らしさ」がここでの重要なキーワードとなっているのだが、「実は「自分らしさ」とは、その響きとは裏腹に、」「現代日本において理想とされる合意の形式であるという仮説」が非常に興味深く、著者の提示する理解のしかたに納得させられる。「統計学的人間観」「個人主義的人間観」「関係論的人間観」はつづく終章でも重要な概念として登場する。「統計学的人間観」と「個人主義的人間観」が裏で手を結ぶという指摘も新鮮だ。

    終章の冒頭、人の生涯を見る上での価値観として重い問いが立てられる。すなわち、「人生は長さなのか?」である。現代の医療は長く生きることを絶対的な価値としており、結局のところそのことが全てを正当化しているのが現状である。そこで著者が考察の対象とするのは、「個人の外側に存在し、かつ一定の速度で流れている」ものとされる「時間」というものの尺度への認識である。ここから哲学者・宮野真生子と人類学者・木村大治を軸に理論を展開し、たどりついた問い掛けへの答えへが、本書のタイトルにも深く関わってくることになる。

    扱い方によっては非常に難解になりえるテーマで、実際に専門的な用語も登場するのだが、わかりやすさへの配慮ある文章が理解を助けてくれた。また、各章で使われている事例には身近なものも含み、著者が言うところを適切に補ってイメージしやすい。自分ひとりではたどりえない思考の過程を、著者の力を借りることで旅することができたという感覚をもつことができた。あらかじめには著者の情報もなく、抽象的なタイトルもあって何が書かれているのかもあまり想像がつかない状態での始まりだった。にもかかわらず読み終えて、率直に良書だと感じている。

  • 「平均人」に論拠した物言いって巷に溢れている(一方でそんな人いない)ので、惑わされずに多様な社会を生きることについての論考。

    医師であるぼくらはよく、リスクの説明を患者さんにする際「これはたくさんの症例をみる僕らにとっては◯%ですが、あなたにとっては起こるか起こらないか、つまり0か100かですよね」という話をする。

    この本は実際にリスクが起こってしまった時にどう生きるか(医師目線でいうとEBMをどうナラティブに落としこむか)、という視点で読んだが、まあ難しい…

    名著『急に具合が悪くなる』を難解にした印象に留まるのが残念

  • 死のポルノグラフィ化。著名人の死は「積極的に、皮肉を込めれば嬉々として語られた」のであり、報じたメディアもそれを見る視聴者も、基本的にはガンマンの決闘やギロチン、六条河原の処刑に群がる野次馬根性である。冷静はなく興奮があり、理性は野性に追いやられた。

    一方、新型コロナの死が針小棒大にポルノグラフィ化されたのとは対照的に、コロナワクチン被害についてはメディアも国民も冷淡で不気味な沈黙を見せた。不当な接種事業にハメられ当事者になった途端に、新型コロナ騒動で見せた興奮も野生も鳴りを潜めた。河野太郎の太々しい権威主義と言論統制の前に顔を伏せた。接種を強要され死亡した看護師は悲惨である。健康そのものだった子供の死は、打たせてしまった親もまた悲劇である。テレビの向こうのグロテスクなポルノグラフィと、現実の生活に突きつけられたフェイクと実害。

    磯野真穂『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』推し本。

  • ふむ

  • 第一部のリスクの手触りについては、読んでいてどんどん引き込まれた。普段なるほど、こんな見方、考え方ができるのかと、読んでいて面白かった。第2部以降、どんどん著者の思考は深まっていき、丁寧な議論が積み上げられていく。読後、すごい本に出合ったなという気持ちになる本。

  • 個人主義的人間観と統計的人間観の協同により生まれる「生物的に長く生きることが大事」という価値観に対して、関係論的人間観を対比させ、関係を多く(深く?)持つ人生が、実際は長く生きることだと主張している。
    これは、人生は深く(濃く?)生きることが大事という価値観など、日常の直感に近い。

    関係論的人間観では、人と人がかかわる(お互いに期待?/予測?を投射しあう)状態でのみ「時間」が「ある」(生まれている)と考える。このため、実際の時間が「ある」長さは、関係論的人間観では、生物的長さに依らないといえる。

    偶然が人生(私)を作る。物語としての人生をほうふつとさせる。偶然が時間を伸ばす(葛藤なども含め様々な物語を生むことで、深みを作るということか)。この帰結は、事故で若くなくなった人が、100歳まで長生きした人より長生する可能性を拓くということ。

    広く広がる統計的人間観、個人主義的人間観による画一的な価値観に対して、それ以外の視点ももつことは、(おそらく「個人」の人生にとって)、重要だという作者の主張は、その通りだと思った。

    また、本書では、全体の流れが読みにくいが、私なりには、一章で「死や病」というビビットな切り口から世界認識について語り、二章で「自分らしさ」をキーワードに自己認識について語ったうえで、終章で、それらに時間を加えて立体的に「人生」を語っていると思った。

    なんとか自分は上を読み取ったが、各所に刺激的な視点がちりばめられていて魅力はあるのだが、全体を通して読んだ時のストーリーラインが取りにくいのはややもったいないと思った。

  • リスクに手ざわりがあるのか?
    1章を見た時にまず思った。
    私たちはそれぞれの脅威をどう捉えてきたか

    自分らしさという救済
    人の中で生成される時間
    そういったものを捉え直す機会になった。

    さいごに気になった文が以下。
    p258
    相手とどこかうまくいっていないと感じながら、これ以上関係が悪くなることを恐れてその違和感を口にしない。そうやって出会いをなかったことにすることで、昨日と同じ相互行為が今日も明日も続いてゆくことを私たちは選択する。

  • 実感のない統計的/科学的/専門的知識(情報経験≒〈遠い=経験〉)が、実感のある生活(身体経験≒〈近い=経験〉)を凌駕している現状について。

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著者プロフィール

いその・まほ:人類学者。専門は文化人類学、医療人類学。2010年早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。
著書に『なぜふつうに食べられないのか-―拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、『他者と生きる』(集英社新書)、共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)がある。本作では、著者の執筆に伴走し、言葉を寄せる。

「2022年 『「能力」の生きづらさをほぐす』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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