エルサレムの歴史と文化 3つの宗教の聖地をめぐる (中公新書) [Kindle]

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  • アブラハムには正妻サライとの間に生まれたイサクと側室ハガルとの間に生まれたイシュマエルがいたが、サライが側室とその子どもを追放するよう夫に懇願したので、アブラハムは側室とその子を砂漠に追放して、生き延びたそのイシュマエルがアラブ人の祖先に、イサクがユダヤ人の祖先になったと、ユダヤ教とイスラム教では信じられているそうだ。

    イサクがユダヤ人の祖先と信じられているというのはなんとなく知ってたけど、イシュマエルがアラブ人の祖先だと信じられているというのは知らなかった。

    ヨセフが兄たちから憎まれたのは、優れていて父から愛されているヨセフへの嫉妬のためだと教会では教わった気がする。
    この本によると、ヨセフは異母兄たちを見下す言動を繰り返したために憎まれたらしい。それは売り飛ばされるかもね…というか、ヨセフとその兄弟たちは異母兄弟だったのか。

    モーセは聖書の登場人物の中でもたぶんトップクラスの知名度だけど、彼や彼の兄アロンが実在したことを証明する史料などは見つかっていないそうだ。

    王になったダビデは人妻に恋して、彼女を手に入れるためにその夫を帰ってこられないように前線に送った…神も怒って一番最初に生まれた不義の子を生きさせなかったとか。
    子どものころに教会で習って、なんとなく旧約聖書の主要なエピソードは知っているつもりでいたけれど、改めてこうして読むと印象がまた変わって面白い。
    ハマスによるテロをきっかけとして始まったガザでの戦争を見て、どうにかこの状況を理解したくて借りた本だけれど、ほんのひと時現実の紛争を忘れて普通に楽しんでしまった。

    しかし、あの戦争はどうすれば終わるんだ?
    イスラエルの極右政権が少し穏健な政権に変わって、ガザの支配者がハマスよりもっと穏当なグループになれば、きっと終わるだろうと思うけれど、そうなる未来をまったく思い描けない。

    「紀元前4世紀には、マケドニア(ギリシア北部)出身のアレクサンドロス大王が、そのペルシアを圧倒した。彼はまたたく間に東地中海から西アジアにわたる広い地域を征服した。アレクサンドロス大王の支配下で、古代ギリシアから生まれた化学、美術、演劇、スポーツなどの文化が、ギリシア語とともに東地中海全体に広まった。この時代をヘレニズム(ギリシア風)時代という。(略)アレクサンドロス大王は紀元前323年、遠征中にバビロンで急逝した。その後は後継者争い(ディアドコイ戦争)が怒り、大王の武将だったセレウコス一世を始祖とするセレウコス朝シリアが西アジアの領土の大半を継承し、エルサレムを含めパレスチナ地方も治めた。」p.15

    「共和政時代のローマは急速に領土を拡大して地中海の覇者となり、前63年にポンペイウスがセレウコス朝シリアを滅ぼした。」p.15

    「イエスについての記録は、新約聖書以外には残っていない。なお、元来はイエスの生まれ年を紀元元年として、六世紀に定められた暦法がキリスト紀元(西暦)であるが、イエスを殺そうとしたと聖書に書かれているヘロデが紀元前四年に没していることがその後わかったので、イエスの青年は紀元前四年ごろと修正された。」p.16

    「ローマ帝国の中で、ユダヤ教から分かれる形でキリスト教が生まれた。よく知られているように、キリスト教は四世紀はじめまでローマ帝国で迫害を受けた。これは母体のユダヤ人がローマ帝国に対して頑強に敵対したことと無関係ではないだろう。またキリスト教がユダヤ教の教えを引き継いで唯一の神を信じ、多神教でいろいろな神々を拝むローマ帝国の祭儀に参加することを拒否したためでもある。(略)ただしキリスト教は、常に激しく迫害されていたわけではなく、皇帝によって方針が違った。」p.20

    「キリスト教は次第にローマ人の間に広まり、313年にはコンスタンティヌス帝がミラノ勅令を発布してすべての宗教の信仰の自由を認め、キリスト教も公認された。
    そこで重要な役割を果たしたのが、コンスタンティヌスの母ヘレナである。彼女がどういう出身の人だったかは明らかではない。ローマ帝国が正副四人の皇帝により分割統治されていた時代に、西の副帝コンスタンティウス一世クロールスの妻あるいは側室だった人物で、コンスタンティヌスを生んだ。しかし、コンスタンティウス一世西の正帝マクシミアヌスとの関係を強化するためにヘレナとは別れてマクシミアヌスの娘と政略結婚をした。その後、ヘレナは息子コンスタンティヌスを頼りに暮らしていたらしい。
    コンスタンティヌスは306年に父の跡を継いで皇帝の一人となり、324年までに他の三人の正帝、副帝を破ってローマ帝国を再びひとりで治めるようになった。
    ヘレナはミラノ勅令より前からキリスト教徒だったと思われ、コンスタンティヌスがキリスト教に対して好意的になったのは、母からの影響と考えられる。」p.21

    「395年にローマ帝国は東西に分割して統治されるようになり、エルサレムなど東地中海は東ローマ帝国に属した。東ローマ帝国はビザンティン帝国という別名もあるので、東西ローマ帝国分割後はビザンティン時代と呼ばれる。ビザンティン帝国の時代は1453年まで続くが、エルサレムのビザンティン統治時代は7世紀で終わった。」

    「614年にササン朝ペルシアがビザンティン帝国に侵攻し、エルサレムも占領されて、……(中略)……。
    イスラム教を信仰するアラブ人が勢力を持ち、638年にはエルサレムも占領した。イスラム教徒にとってもエルサレムは、預言者ムハンマドにまつわる聖地となり、神殿の丘には岩のドームが建てられた。
    イスラム勢力も一枚岩ではなく、エルサレムは970年からはファーティマ朝、11世紀からはセルジュク朝が統治するようになった。キリスト教徒の巡礼運動はイスラム統治下でも続いた。またユダヤ人はエルサレムに住むことができた。」p.22

    「西ヨーロッパでは11世紀ころから社会がかなり豊かになり、キリスト教の美術や建築の活動も活発になった。これがロマネスク時代である。ローマのカトリック教会を中心とする西ヨーロッパの人々は、聖地への巡礼が自由におこなえないことを不満に思った。」p.23

    「カトリック諸国はスペインやイタリアなどでイスラム教勢力と対立し、イスラム教徒と戦って領土を奪うことは正義であると考えるようになった。こうした背景のもとで、ローマ教皇ウルバヌス二世は聖地奪還を呼びかけ、第一次十字軍がエルサレムに向かった。(中略)
    1099年に激闘と虐殺の末、エルサレムを占領した。十字軍は10万人以上の貧しい一般人を含む集団だったが、リーダー役となったのはフランスやフランドルの騎士だった。(中略)
    こうしてエルサレムにキリスト教のエルサレム王国が成立した。(中略)しかし西欧人支配の基盤は脆弱で、戦いが絶えなかった。」p.24

    「サラディンはシリアのアレッポの君主に仕えて政治や軍事に通じるようになり、エジプト遠征を成功させて、アイユーブ朝と呼ばれるイスラム王朝を開いた。彼はシリアにも勢力を広げ、エルサレム王国を攻撃し、1187年にエルサレムは降伏した。サラディンは虐殺や略奪をおこなわなかったばかりか、捕虜にしたヨーロッパ人たちを解放するという寛大さを示した。

    西ヨーロッパは、イングランド国王リチャード一世(獅子心王)らによる第三次十字軍を送ったが、エルサレムを奪取するには及ばず、キリスト教徒の巡礼を認める約束をサラディンから取り付けて引き上げた。エルサレム王国という名前の国は、沿岸部の港湾都市と支配して存続した。

    サラディンの後継者の時代でも、キリスト教徒は外交交渉によってエルサレムでの権益を確保するという方針を続けた。神聖ローマ帝国皇帝でもありシチリア王でもあったフリードリヒ二世は1229年、アイユーブ朝のスルタン、アル・カミールと交渉し、10年間の期限付きでエルサレム王国の樹立や聖墳墓教会の保有などを認めさせた。イスラム側が交渉に応じたのは、西欧諸国の軍事力を恐れたためというより、巡礼たちの訪問による観光収入をあてにしたためである。エルサレムにはイスラム教徒やユダヤ教徒が住み、キリスト教の巡礼が訪れて、一定の繁栄を見た。

    1250年には、エジプトからシリア・パレスチナ地方にいたるイスラム帝国の支配者はマムルーク朝に変わった。マムルークとはイスラム圏の諸国で活躍した奴隷身分の傭兵のことで、強力な戦闘集団であった。

    バグダッドのハーレムにいた奴隷出身のシャジャル・アッドゥルという女性が、アイユーブ朝のスルタン、サーリフの妻になり、サーリフの死後短期間ながら女性のスルタンになったのがマムルーク朝の始まりである。」p.25

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著者プロフィール

浅野和生
1956(昭和31)年生まれ. 大阪大学大学院博士課程中退. ギリシア国立アテネ工科大学建築学部美術史学科留学(ギリシア政府給費留学生). 愛知教育大学助教授, 同教授を経て, 現職. 専門:西洋美術史(特にビザンティン美術). 著書『イスタンブールの大聖堂』(中公新書, 2003)『サンタクロースの島』(東信堂, 2006)『ヨーロッパの中世美術』(中公新書, 2009)『図説 中世ヨーロッパの美術』(河出書房新社, 2018)ほか

「2023年 『エルサレムの歴史と文化』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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