表題作と「小田切孝の言い分」は合わせ鏡である。
一人称で淡々と描かれる「袋小路の男」
男が自分勝手にふるまう理由なんてわからない。
自分に興味がないのかと思えば、彼が出来た時だけは頻繁に電話をよこす。
待ち合わせても平気ですっぽかす。
男の気持はわからない。
でも、私は男を追い詰めないように距離を取りながら、少しずつ居場所を作っていく。
それに対して「小田切孝の言い分」とくれば、男の側からの一人称かと思いきや、交互に語られる同じ時間。
小田切孝は決して大谷日向子の心をもてあそんでいるわけではないのである。
決して恋愛感情があるわけではないけれど、それなりに気を使って大切にもしている。
ただ、束縛されたくはない。
そういう気持ちはわかる。
けど、30過ぎても就職もしないで作家になる夢を追い、アルバイトをしながら袋小路にある家に母親と住む男。
そんな男のことを、普通女性の方から見切りをつけるのではないだろうか。
しかし彼女は、熱く男を求めない代わりに長く思い続けるのである。
熱く求めなかったからこそ、長く思い続けていられたともいえる。
それはある意味確信的に選択された行為であり、臆病であるとも強かであるともいえる。
けれども文体はあくまでも穏やかで、少しだけ温かな気持ちで二人のこれからを思うことができる。
それとは違い「アーリオ オーリオ」は、中学生の姪と独身の叔父の交流を書いたもの。
一緒にプラネタリウムに行ったことから、叔父に心を開き、将来の夢などを手紙で綴る姪。
それに対して人付き合いの苦手な叔父は、星のことしか返事に書かない。
それでもつながるふたりの心。
親ではない大人に、自分を認めてもらう誇らしさ、喜び。
姪の気持になってそんなものを感じながら読んでいたら、突然下ろされる幕。
娘の受験の邪魔はしないでくれという父の言葉によって。
叔父と姪のあいだにだけ存在していた星。アーリオ オーリオ。
恋愛じゃないんだけど、喪失の切なさが心にしみた一編。
これ、好きだわ。
- 感想投稿日 : 2014年10月27日
- 読了日 : 2014年10月27日
- 本棚登録日 : 2014年10月27日
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