小泉八雲集 (新潮文庫)

  • 新潮社 (1975年3月18日発売)
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感想 : 90
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今年読んだ本、イサム・ノグチの評伝や、『坊っちゃん』の時代シリーズなどいくつかに、ちらちらとその気配やうしろ姿を垣間見せていた小泉八雲。
これはどうやら呼ばれているらしいぞということで、この夏の課題図書に個人的に選定し、お盆の時期を狙って読みました。

小泉八雲には多数の著作がありますが、この本はそれらの中から数点ずつ選んで編集されたもので、前半は怪談話が、後半は日本人論が主となっています。

怖い話がめっぽう苦手な私ですが、しかも時期が時期でしたが、これはあまり怖くはありませんでした。
一つ一つの作品が短くて、物語のエッセンスの紹介という体であったというのが1点。
そして、怪談にいたるまでの悲劇が、日本人の心情として美しく感じられるものであったからというのがもうひとつの理由であるような気がします。

後半の日本人論などを読んでも、小泉八雲は日本人でも気づいていないような日本人の美点を高く評価しています。
当時、日本という国の理解が西洋の国々にほとんどなされていなかったことを考えると、大変にありがたいことなのですが、どうも必要以上に日本をかっているのではないか。
または、西洋文化に対して思うところがあるのではないかと思わされる節があります。

収録されている「日本人の微笑」の中に、こんな一文があります。
“つまり、相手の慣習や動機を、つい自分たちのそれらで評価しがちであり、それも、とかく思い違いしがちであるということである。”

自分の価値観と違う慣習を、低いものと見がちであることを戒めた文章ですが、小泉八雲の場合は、違うからこそ素晴らしいという方向に振れているのではないかと思いました。

それはラフカディオ・ハーンという人間が、西洋の文化のなかで、常にマイノリティな存在だったこととは無関係ではないはずです。
アイルランド人の父とギリシャ人の母。
ケルト神話を背景に持った土地で育った父と、ギリシャ神話の国から来た母の不仲。
キリスト教では救われなかった幼少期の思いが、日本人の、口に出さない想いであるとか、辛いときこそ笑顔を浮かべようとする心情であるとかに、惹かれたのではないかと思いました。

とはいえ、嬉しくも楽しくもないのに、顔に笑顔が張り付いている不気味な日本人というものを、相手に不快な思いをさせないように、辛い思いを伝えないように笑顔でいるのは、日本人にとっての礼儀であると、きちんと欧米の人たちに伝えてくれたのは、全くもってありがたいことです。
日本人が自ら説明することは、まずできなかったでしょうからね。

日本人の美点はその利他主義にある。
周囲の人が幸せであってこそ、自分も幸せになれる。

明治以前の日本人というのは、そういう人たちだったようです。
他人の幸せのために、自分に厳しい義務を課す。

それが、西洋の文化を受け入れるにつれて、利己主義へと変わって行き、日本人の美点が失われていくことを危惧しています。
実際、私が子どものころよりもなお、利己主義は勢力を強めているように思います。

“イギリス人は生まじめな国民である―それも、表面だけのまじめさではなく、民族性の根底にいたるまで徹頭徹尾、生まじめであることは、だれもが認めるところである。これに対して、日本人は、イギリス人ほどまじめでない民族と比べても、表面はおろか、おお根において、あまり生まじめでないといって、おそらくさしつかえあるまい。そして、少なくとも、まじめさに欠ける分だけ、幸福なのである。たぶん、文明世界の中で、今もなお一番幸福な国民であろう。”

え!?
これ、日本人のことですか?
と、一瞬思いましたが、やはり明治の初めに日本に滞在して、日本の奥地〔東北、北海道〕を旅した女性、イサベラ・バードも日本人は不潔で怠け者と書いていましたから、多分当時の日本人はそうだったのでしょう。

明治政府が推し進めた、西洋に追い付き追い越せ政策のせいで、あっという間に日本人は利他主義を忘れ、笑顔を忘れ、エコノミック・アニマルになってしまったんですね。
そして今、私たちは幸福な国民であるのでしょうか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2015年8月17日
読了日 : 2015年8月17日
本棚登録日 : 2015年8月17日

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