ジャンルを問わず沢山の本を読まれている読書家よりお借りしたこの本。28の短編で構成されている。
『奇譚』とは不思議な話しのこと。「もののけ」の類と邂逅する非日常的な日常は、四季に咲く草木による季節の移り変わり、自然との共存を背景に、古来からの慣用を交えながら奇譚かつ風流に描写され、味わい深い文章となっているのが特徴的な作品であった。
タイトルが草木の名でその草木が本作の四季の趣を色付けていて、自然と触れているような気になる。まるで『日本むかし話』のごとく、さすが読書家のお勧めの作品だと納得する。
本作のこの世と別の世を繋ぐ出入口となっている掛け軸。ボートを漕いでいる時にいなくなった友人は、掛け軸からボートを漕ぎながら現れるという設定も読者の想像に広がりを持たせて面白い。
掛け軸は、昔の中国では「掛けて拝む」という仏教の仏画用として使用されていた。日本では、鎌倉時代後期、禅宗の影響で水墨画が流行しはじめ、掛け軸は芸術品となる。千利休が床の間に飾られている掛け軸を茶の席で見、人々に重要性を伝えてから掛け軸が流行するようになったようである。その流行から約450年経った現代においても掛軸は日本の床の間に健在し、日本の分化を象徴している。
一章が短くそれぞれにテーマがあり読みやすく、素朴な表現と天地自然の不思議な出来事に癒され、交歓を感じる。また、時間をあけて読み直してみたい1冊であった。
以下は忘れないように28章を記録のため、これから読まれる方は、スキップください。
サルスベリ
主人公・綿貫征四郎に恋するサルスベリ。掛軸から現れた高堂によると庭のサルスベリがおまえに懸想しているとのこと。今まで、この家に住んでいた高堂には、懸想しなかったということかと思い、おかしく思う。そして綿貫も「実は思い当たるところがある。サルスベリの名誉のためにあまり言葉にしたくないが」と言っており、自意識が高いのか、サルスベリの態度が露骨なのかと、擬人化されたサルスベリの乙女顔を想像してみたくなる。
都わすれ
都わすれは、野菊のような姿形の、野菊よりも遥かに艶やかな濃い紫の可憐な花が咲く。
短編集の雑誌掲載で、稿料が入ったので肉を買って帰る途中に犬がついてくる。この犬がこの後、綿貫の相棒となる名犬ゴローだ。
ヒツジグサ
睡蓮が「けけけっ」とけたましく鳴く。睡蓮が鳴くはずはないと、思っていたら案の定、ヒツジグサ、いわゆる睡蓮の葉が群生しているところに緑色の皿を見つける。これがなんと河童。いわゆる妖怪。伝説上の動物であった。
ここまでくると、河童がてできてもおかしくない。睡蓮が「けけけっ」と鳴くより河童が「けけけっ」となく方がしっくりする。とさえ思えた。
ダァリヤ
河童を朽木村の滝壺に放ちに行ったゴローが、帰ってこない。庭に出た百足、ヘビ、マムシを捕まえて売って欲しいと言う眼光鋭い長虫屋がいきなり登場するのが不気味。マサキの生垣の向こうに咲くダァリヤは、今回は娘に化けて出てきたのであろう。
ドクダミ
庭で見つけた女の「河童の抜け殻」。また、河童ですか…河童の抜け殻のかけらをタンスに入れると衣装が溜まるという言い伝えまでありしかも、乾燥した抜け殻は薬になるかもしれないと、隣のおかみさんは言う。
なんと、「河童の抜け殻」は、「河童衣」といい、脱皮の後ではなく、衣=衣装だと、禿の姿をした少女を連れてきた高堂が説明した。池に注ぐ水路の周りをドクダミの花が燈篭のように群れをなして咲いていた。いまいち、河童衣とドクダミの関連性があったのか、なかったのか、分からずに終わった。
カラスウリ
蔓性の植物が、穴が開いた床からものすごい勢いで家の中に生えてきた。道路に隙間から雑草が生えているような感じだろうか?と、そんな生命力が強いものなのかとカラスウリをネットで調べてみた。あまり強くはなさそうである。それよりもその花の映像に引いてしまった。見様によっては綺麗と言うこともできそうだが、不気味に見えた。それにヤモリがカラスウリの中で正気を吸われたように干からびていたのを発見するなんて、ますますこの植物を不気味に感じた。
竹の花
高校の時の国語の教師が授業の合間に「竹の花は60年に一度、一斉に咲く。だから庭に竹林があっても、その花を見ずに一生が終わるかもしれない」というようなことを話していたことを覚えている。本章で60年に1回ということが書かれていたので、疑ってはいなかったが、正しかったんだと、今更ながら確認した。それにしても、そんな竹の花が時だからか狸と狐が化けて出てくるような奇譚な出来事があっても、『そうなんだ』と妙に納得する。
白木蓮
木蓮が蕾を一つつけていた。木蓮に雷が落ちて、タツノオトシゴを孕んだと長虫屋がいう。木蓮から孵ってのは、白竜だった。本当はタツノオトシゴなのだろうが、綿貫にはそう見えたようだ。確かに生まれたては同じだろうと思った。あえて白竜としたところが、ますます不思議な出来事に思える。
木槿
木蓮が満開になる頃、それを助けようと立ち現れる季節もののマリア像の蜃気楼。掘り出して綺麗にしてあげようと言う綿貫に対し、蜃気楼のように儚げであるからこそ美しいと感じる高堂の考えにだからこそマリア像なのであろうと思ってしまう。
セミの声が聞こえると梅雨が終わり夏が始まると思っている。最初はクマゼミ、アブラゼミそして、お盆過ぎには、ツクツクボウシ。そうなると『もうすぐ夏も終わるのか』と、毎年、夏を惜しみ寂しく感じる。
ツリガネニンジン
ツリガネニンジンは、確かそんなに大きな草でもなく、草地にひっそりとあるイメージだ。でも、その日はお祀りだったので、鈴の音により庭のツリガネニンジンの花がお慰めに御陵まで行っていたのであろうか。いずれにしてもさっき旅籠の2階で見た6人の娘が、自宅の2階で帰ってくる綿貫を見ているなんてというところである。
南蛮ギセル
「二百十日」とは、「雑節一。立春から数えて210日目、9月1日ごろにあたる。台風襲来の時期で、稲の開花期にあたるため、昔から二百二十日とともに農家の厄日とされる。(大辞林より)」
大気が騒ぐといろんなものが出てくるようで、綿貫にふさぎの虫までもが出てきた。
この虫を逃すかのように、戸の隙間に挟まっていた風虫をにがすのは、ひょっとして大気のよどみをなくすと言うことなのだろうか?
スズキの穂が立ち始め空気の質が夏から秋に変わり季節感を感じて眺めたススキの足元に南蛮ギゼルが目に入ったということだと思うと、まるで百人一首の歌を読んでいるような気分になる。
紅葉
ゴローに呼ばれて池に行くとそこには上半身が女人で下半身が魚の人魚?魚人?がいた。俊敏に泳ぐ姿は鮎そのものなので疎水で見た鮎の群れからはぐれたのであろう。そして、その人魚は竹生島の浅井姫命のところへ、竜田姫が秋の挨拶にいらした時の行列の中にいた侍女のようである。このタイトルの紅葉は、紅葉した紅葉が川に落ち、湖の真ん中に吹き寄せられたところモミジブナが岩礁の奥から出てくるために、竜田姫一行は足止めされているとのこと。モミジブナとは、琵琶湖に深いところで生息し、秋になるとヒレなどが赤くなるようである。
侍女は、ここに居座るのであろうか?
葛
池にある人魚をサギから守ろうと山内にお願いして、池に網をはってもらった。網を張るのに使用した葛の蔓に咲きかけの花房を見つけた人魚はそれを取ろうとしていた。
萩
いきなりローレライが、出てきたので調べみた。「ドイツ西部、ライン川中流の峡谷の東岸に垂直にそびえる奇岩。高さ132メートル。また、その岩上にいて、美しい歌で舟人を誘惑し破滅させるという伝説の魔女。(goo辞書)」鮎人魚は、この魔女を思い出すということなのであろう。
明くる朝、鮎人魚は、鮎になっており、昨日池に落とした葛の花は萩の花に変わっていた。
ススキ
「人は自分が死んだら故郷のどこそこへ埋めてくれと人にせがみたくなる、いい場所とは人が埋められる気になる場所である。」景色のいいところが少々苦手になりそうな予感がした。
ホトトギス
鶴の恩返しならぬ狸の恩返し。狸から松茸の贈り物。比叡山の信心深い狸が、山を回る間に成仏できない行き倒れの魂魄を背負ってしまう。大変な狸がいたものだ…
野菊
サルスベリに名前の順番を変えて「リサベル」と命名する。命名されたサルスベリの内心の嬉しさは容易に想像できる。おかみさんが土手の小さな紫の野菊を見ているおかみさんの名前は、菊さんでも、野菊さんでもなくハナさんだった。このオチがうけた。
ネズ
いきなり古ぼけた蓑笠を被った老人が登場した。しかもおかみさんが言うにはその老人はカワウソだという。そして老人がカワウソであることは、この辺りの子供でも知っているということだ。袂に入っていたネズの実を誰が入れたかではなく、昔聞いた熟するネズの話を思い出している。
サザンカ
ダァリアの君の幼なじみの佐保ちゃんの嫁入り行列。急なことだったので、花が間に合わなくて、この辺り一帯の、早咲きの白いサザンカを集めてきたという。佐保ちゃんは春の女神になって還ってくる。というその言葉に輪廻を感じる。
リュウノヒゲ
いかにも、草、という感じのわざわざした植物の間に、瑠璃玉のように浮かんでいる。湖のまわりには、龍にまつわるものがいっぱいあるそうだ。「龍の宮」という祠には龍の骨もある。開国の御代になってすぐに、ドイツの地質学者であるナウマンがこの龍の骨を大昔のゾウの下顎の骨と言ったそうだ。
『ハインリヒ・エドムント・ナウマンは、ドイツの地質学者。 いわゆるお雇い外国人の一人で、日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成。またフォッサマグナを発見したことや、ナウマンゾウに名を残すことで知られる。(Wikipedia より)』
檸檬
湖からくる汽車を待つダァリアの君と駅で遭遇する綿貫。二人の間に「いと年経たる龍の ところ得顔に棲まい」とゲーテの詩が飛び交う。ダァリアの君はどれだけ教養人なのであろうか。
南天
降り積もった雪の間から、南天の赤い実が艶々と光っている。そんな冬の情景から始まるこの章。冬の楽しみ方が増えた気がした。冬の情景から「家鳴り」に繋がる。
『家鳴、家鳴り、鳴家、鳴屋は、日本各地の伝承にある怪異の一つで、家や家具が理由もなく揺れ出す現象。 鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、小さな鬼のような妖怪がいたずらをして家を揺すって家鳴を起こしている絵が描かれているが、現代では西洋でいうところのポルターガイスト現象と同一のものと解釈されている(Wikipediaより)』
ふきのとう
雪の残った疎水土手に、拳を、一回り小さくした小鬼が、昼寝をしている。さすがに、綿貫もはじめての出会いのようであるが、今までの流れから考えると当然であるが、驚くこともなく興味津々で鬼を観察している。そして、ふきのとうを探している鬼の手伝いをする。
「今日はもう啓蟄ですから」というおかみさんの言葉で、私も綿貫と同じように「ああ、小鬼は虫だったのか。」と、思ってしまった。
センブンソウ
冬の早朝、玄関先に大きな鳶が、一羽、立っている。ぎょろりとした鳶色の水晶玉のような目が此方を認めた。鳶の名前の由来は目玉の鳶色なの?と、勘違いをしてしまう。
鈴鹿の山の主であるこの鳶について、高堂が佐保姫と浅井姫のことを説明するが、それは人の世の言葉では語れないとのことである。気になるとフレーズでる。
貝母
筍を探して遠くまできた綿貫の前に風情のある杉皮葺きの家が竹藪の中でひっそりとあるのを見つける。中から出てきた百合という女人から「孟宗竹はまだまだですよ。あなたが探しておられるのは大名竹でしょう」と言われる。今まで、竹の種類なんて気にもとめていなかった。
山椒
檀家が、竹山が狸に荒らされて朝堀りで筍を持っていかれたと言っていた。和尚に化けた狸が綿貫と食べようとその筍を持ってくる。筍が余るほど貯まってしまう贅沢な悩みとともに緑色の山椒の芽生えを気にする余裕はさすがであると、こんなところがこの作品の不思議な魅力なんだろうと実感する。
桜
桜の季節は世の中が明るく感じる。散っていく桜を見ると、季節が進むことに心躍る気持ちと寂しいという気持ちが交差する。鬼桜の暇乞い。すっかり住み着いた小鬼。綿貫は桜鬼に律儀に挨拶をされる境涯にあって、超然としているところがいい。と山内がいう。まさにその通りである。
葡萄
最後は少し怖かった。湖底の国に行き、そこで葡萄を勧められる。綿貫は勧められた葡萄を食べなかった。高堂は、葡萄を食べたようた。だから綿貫の住む世界と違う世界で住むことになった。
- 感想投稿日 : 2020年9月29日
- 読了日 : 2020年9月29日
- 本棚登録日 : 2020年9月29日
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