東京會舘とわたし(上)旧館

著者 :
  • 毎日新聞出版 (2016年7月30日発売)
3.83
  • (149)
  • (356)
  • (206)
  • (20)
  • (10)
本棚登録 : 2130
感想 : 294
4

1922年(大正11年)に丸の内に誕生した『東京會館』。西洋文化が広がりつつあったこの時代に「世界に誇れる社交場」を目指して開場した。鹿鳴館は「限られた上流階級の社交場であった」が、東京會舘は「誰もが利用できる、大勢の人々が集う社交の場」として、その時代の人々に愛されていく。
しかし、その開場からわずか1年足らずの翌年、1923年9月1日に起こった関東大震災が残した爪痕により閉館する。それから3年後の1927年(昭和2年)2月に震災の補修工事が終了し再び開業するが、太平洋戦争中には、大政翼賛会に接収され「大東亜会館」に改称。そして終戦後はGHQに接収され「アメリカン・クラブ・オブ・トーキョー」として営業することになる。そして、時代支配の影響を受けながらも、1952年(昭和27年)7月にようやく『東京會館』の本来の名前に戻った。

本作はそんな『東京會館』の激動の歴史とその歴史と共に歩んだ人々の『東京會館』への想いを作家・小椋真護が執筆するという設定となっている。

第一章 クライスラーの演奏会
大正12年(1923年)5月4日:
ヴァイオリニスト フリッツ・クライスラーの音楽会に金沢から駆けつけた主人公・寺井承平が、音楽会終了後に訪ねた『東京會館』の想い出。

今の世の中でこそ、大学進学は当たり前のようになっているが、この時代に大学進学のための上京というのは、裕福な家庭で育ち親に敷かれた人生があるか、志があるかのいずれかであろうと推測する。主人公・寺井の進学は前者で、大学での講義よりも音楽と文学に関心を持った。今までとは異なり、進んだ世界を見て、興味関心が違うところに向いてしまう設定であった。大成したいと願う若者らしい気持ちが描写されており、それが若者としての甘さとして映るの。
クライスラーの音楽会終了後に一緒に来ていた東京の出版社に勤める編集者・近藤に取り残され、その余韻に浸りながら一人で東京會館を散策していたところ、東京會館への移動中のクライスラーと地下道で出会った偶然、
この日の一連の出来事が、この青年の気持ちを前向きにし、彼の進むべき方向を照らしたのだと感じた。


第二章 最後のお客様
昭和15年(1940年)11月30日:
大政翼賛会による『大東亜会館』に変わる最後の日、『東京會館』と共に走ってきたホテルマン・佐山健の想い。

戦争の時代の波に争うこともできず、自分の意思とは異なる方向に進んで行かなくてはならない寂しさが、ひしひしと伝わってくる。
ホテルマンとして、最終日に喜こばれざる客を迎えなければならない佐山の心中は、『東京會館』の最終日に居合わせた同僚たちの『東京會館』に対する思いにより救われたのではないだろうか。

佐山な毎朝、早起きして紅茶を飲む習慣にホテルマンとして、時代を先行しているように受け取れた。


第三章 灯火管制の下で
昭和19年(1944年)5月20日:
主人公・関谷静子が、『大東亜会館』で新婦・水川健治と結婚式、披露宴をあげる。
婚礼の支度担当は、長年『東京會館』の結婚式を支えてきた理容館の遠藤波津子であった。世の中が混乱している中でとり行われた結婚式と披露宴の『東京會館』と想い出。

戦争中の結婚式。戦争が始まってしばらくは、日本が優位な戦況であったことを受け、東京會館が、徴用解除となる。
その間に東京會館で結婚式と披露宴が行われた。
顔もよく知らない人の家に嫁ぐ不安、敵機が飛び交う中で行われる披露宴は、ホテルマン・佐山の心遣い、花嫁の側から離れない遠藤の存在により東京會館で働く人たちの心遣いが、『東京會館』として静子の心に刻まれる。『東京會館』のサービスが、マニュアル化されたサービスではないのであると感じる話であった。

些細なことであるがこの章で寺井のその後の記載があり少し感動があった。寺井はその後、『サンデー毎日』の偉い作家っていた。もとは少年活劇のような小説を書いていたが、徐々にら大人向けの大衆小説を書くようになり、やがて新聞や週刊誌にも連載を持つようになったようでる。寺井の志が成就したことを知り、嬉しいと思った。

第四章 グッドモーニング、フィズ
昭和24年(1949年)4月17日:
終戦後、GHQに接収され「アメリカン・クラブ・オブ・トーキョー」のバーで働ようになった桝野宏尚が後に伝説のバーテンダーとして称される先輩・今井清と共に仕事をした時の想い出。

実在していた今井清の働き方は、接客業としてのプロのおもてなしと、トップバーテンダーになるための熱意が伝わってくる。
バーが酔っ払った外国人に荒らされないようにと、バーの床で寝泊りする今井の行動に日本人的な真面目さと自分の職場を守ろうとする強い意志を感じる。そのことからもきっと、将来に一流の、トップのバーテンダーに成長していくことがわかる。そして、そんな行動は共に働く後輩に刺激を与え、彼らの育成につながる。

今井と桝野が作ったモーニング・フィズは、今井の仕事への取り組み方から生まれるべく生まれたフィズである。
そんな今井の実力を間近で見ていた桝野の今井に対する感情は決して、妬みや嫉妬ではなかった。そんな桝野だからこそ、将来白いバーコートを着ることができるようになったのだと思う。


第五章 しあわせな味の記憶
昭和39年(1964年)12月20日:
東京會館で初代製菓部長を務めた勝目清鷹に「持ち帰りができる、お土産用の箱菓子の製造」の製造依頼がきたとの想い出。

イターネットで何でもお取り寄せができる今の時代からすると、缶に入ったプティフールがなかった昔の時代が信じられない。
『東京會館』で働くシェフ、ベーカーたちにとっては、自分たちが作る物に対する質、おもてなしの質に譲れないプライドにだから『東京會館』なんだと思わずにはいられなかった。
当時の事務部長・田中康二のウエディングケーキの話「外食に縁がない奥さんやお子さんに東京會館の味を伝えたい」という、幸せのおすそ分けからパピヨンが生まれる。

幼い頃、父が接待で帰りが遅かった時、よく母と「今日のお土産は何かなぁ」と、楽しみにしていたことを思い出した。
利益のためにプティフールが誕生したのではないと考えると、その誕生がとてもありがたく思える。

『東京會館』の歴史は、ホテルで働く人と訪れる人たちの歴史に紐付いていることを知ることができる。戦争、震災という過酷も歴史もその全体の歴史の一部であることが、かえって『東京會館』の歴史を濃くしているのだと解る。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年9月6日
読了日 : 2020年9月6日
本棚登録日 : 2020年9月6日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする