花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

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  • 新潮社 (1968年9月17日発売)
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『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』

高山秀三氏の論文が参考になる。
(CiNii 論文 少年期における三島由紀夫のニーチェ体験 https://ci.nii.ac.jp/naid/110009995254 )

生活の中で使う言葉、ではない言葉
散歩中に花を見つけて、この花は綺麗だね。
というように使う“花”ではない。

花は、咲き枯れ再び花を咲かせる輪廻を思わせ
花の蕚は、花が蝶のように飛び立たぬためにやさしく無情に支えているのであり
花は、崩壊の可能性を含んでいる完全なるもので
花は、久遠であり

と、観念か概念か分からんが、そういう文章の中で、花は現実の目の前にある花ただそれを示さず
、含意が多く、三島が何を表したく花を使っているのか読み取らねばならない。

ここに出てくる名詞はこのように読み取らねばならん。花、落日、健康、森、海、舞、薫り、殺人、など。

修辞をこれほどに多用するのは、興味がない人を遠ざけ、一部の人に読者を限る。

修辞は使う人を よぉーく 表す。

修辞に気をとられる。
気をとられる私がダメなんだ。
修辞に惑わされんな。

書いてあるのは三島自身のこと。

相手を殺す 死ぬ 美しい 己も死ぬ
殺しながら兇器の先で、美しいものを支えている
それが久遠に殺すということ?(輪廻 快癒でなく)

夥しい衣装を殺す間に 奥ですでに死んでいる
無碍が痛い 落日が痛い 快癒が痛い
自身の健康が彼に痛みを与えるとは?

無他な海賊に、何度も海に誘われるが、他者との距離から始まる殺人者は海賊にはなれない。

海賊に、花売るために憂鬱な狂人を佯わろうと 誘い出す。 (芸術へ誘う)

肺ろう人を殺す日記が分からん。

蒔絵のようとは、きらびやかということ?逆?
蒔絵のように無為なというと地味な方を浮かべるけれど。
(修辞が私に機能しない。)

使命、意識が弱点 このうえなくたおやかならんために、このうえなくさげすむ弱点に祈りをささげる。 (弱点と共に生きるのか?)

三島の「イカロス」という詩も合わせて読むといい。

芸術を三島がどう思っているのか受け取るしかない。
読者の感想いらない。 正確に読み取ることだけが必要。
なぜ 芸術に死が必要で そこが美しいと思うのか さらに、殺しつつ生き不断に死にゆく、なぜ自身も死ぬのか、私は理解できなくとも、三島はそう思うんだから受け入れるしかない。

「詩を書く少年」

辞書で知らない言葉に出会い
違和感を覚え
意味を知る

感情感覚を体験して違和感を感じたら
さっきとは逆に
その経験はこの言葉か となる
その経験は未経験では無く すでに経験されていた

経験したか経験してないかはどうでもよく
未経験のことを言葉で書くことに矛盾はなかった
(私だったら、そうは思えない)

それなしには生きられない夾雑物 (またも矛盾)

修辞の話に移るが、「伜 三島由紀夫」平岡梓 著
に三島は、「作品の上では花に関しても何かと書いていましたようですが、僕の見るところでは花屋からたくさん届けられる花には何の関心も示さず、庭に咲く紅梅やざくろその他の草花にも全くと言っていいほど興味を持ちませんでした。」
とある。
表出するものと、内側の様々な感情思考は一致しないが、じっと見入っていることが少なかった(動きのないものはずっと見てられない。と詩を書く少年でも書いている)ことは確からしい。
花を見ずに花を捉えていた。
まさに詩を書く少年の言う通り。

実際に花をじっと見ているから、花を捉えられるというのではない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年2月23日
読了日 : 2020年2月23日
本棚登録日 : 2020年2月23日

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コメント 1件

corpusさんのコメント
2020/12/29

高山秀三氏の論文を拝読した。女性に囲まれて育つ男子として三島がニーチェを重ね合わせていたのはわかる。しかし、なぜニーチェのように髭を伸ばさなかったのかがよくわからない。東洋人に髭は似合わないと考えたのか。

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