月魚 (角川文庫)

著者 :
  • 角川書店 (2004年5月25日発売)
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本棚登録 : 9556
感想 : 1033
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『「へえ、泊まっていっていいんだ」、茶化すような瀬名垣の言葉に、細い真志喜の首筋がうっすらと桜色に染まった。』『瀬名垣は離そうとする真志喜の手を許さなかった。逆に真志喜の指先を、左手で包むように握る』、古本屋『無窮堂』の若き店主・本田真志喜とその友人・瀬名垣太一が紡いでいく二人の主人公の物語。えっ!と思わせる淡く揺らめく『BL:ボーイズラブ』の描写で物語は始まります。

読者に、もしかしてこの二人って?という気持ちを抱かせる一方で文体は見慣れぬ漢字が多く並ぶなんだかゴツゴツした印象。これは何時の時代の話なのか?『硝子戸の鍵』、『天の岩屋戸』、『葡萄茶の着流し』というような感じで時代感が今ひとつはっきりしません。そんな中、真志喜の家に泊まることになった瀬名垣。
『月に照らされ、池と、枝を伸ばした木々の生い茂る築山が、影の濃淡で幽玄の世界を現出させる』
『冴えた月光は、澄み渡った銀色の触手で部屋を一撫でし、部屋の温度をますます下げた』
『つぶやきまでもが月光に漂白され、部屋を寄る辺なく彷徨う』
もうため息が出そうに美しい、月のある情景です。漂っていた二人の一種妖艶な空気が、一気に透明で冷徹な空気に入れ替わった感じを受けました。

この作品で描かれるのは古書の世界。『古本業は、本を買い取る基準も、それを売る値段の基準も、それぞれの店主の価値観と力量に委ねられている。日々、研鑽を積まなければ、アッという間に客に足もとを掬われ、同業者の笑いものになる』という、この世界で生きていくことの厳しさが語られます。古本屋との関わりは人それぞれだと思います。その独特な空気感にあしげく通われている方も多いと思います。

『「無窮堂」にある本は、正確に言えば私の本じゃない。ふさわしいひとの手に渡るまで、私が預かっているだけだ。いつも自分にそう言いきかせていたはずなのに、いつのまにか愛着を抱いてしまっている自分に気づいて、愕然とした』という真志喜。店で目録を作って顧客や図書館などに配り、注文を募る通信販売を大切に思う真志喜。目録はその店の店主の趣味を色濃く反映できるため、そのことに情熱を燃やします。そんな彼と対極に、店を持たず、一般の人から本を一度に買い付けて、そのまま市場に流して古本業者に売る卸専門の瀬名垣。そんな対称的な二人には少年時代にある事件でその後の人生に大きな影響を与えられていました。そんな二人が古書の一括買い付けに赴いていく…。

『図書館に入ってしまったら、本は死んでしまう。流通の経路に乗って、欲しい人の間を渡り歩ける本を、生きている本と呼ぶんだ』という真志喜の語る言葉は強く印象に残ります。今この瞬間も世界のどこかで、日本のどこかで、新しい本が生まれています。一生かかっても踏破できない本の山。本と言ってすぐに思い浮かぶのが図書館である分、ショックな視点だと思いました。そして、『店にあるときの古本は静かに眠る。これらの本を書いた人間たちは、すでにほとんど全員死者の列に連なっている。ここに残されているのは、この世にはもう存在していない者たちの、ひっそりとした囁き声だ。真志喜はそれらの本の発する声を、じっと聞いているのが好きだった。』という表現など、本を愛するということを突き詰めた世界、古書に魅せられた人たちの生き様が強く描かれていました。

他の方のレビューにも、『BL』という文字が踊っています。実際、モヤモヤとした雰囲気が最初から最後まで付き纏います。古本業の極めて細かいリアリティに溢れる描写の一方で、『BL』を匂わすようなリアリティから遠い茫洋とした淡い空気感の併存、それがなかなかに捉え所のない摩訶不思議な世界観をこの作品の中に作り出しているのだと思いました。

辞書という舟を編み、この世に送り出す仕事を描いた「舟を編む」の次に読んだのが、その本の旅の先を取り次ぐ、いわば本の旅行代理店のような仕事を描いたこの本でした。いずれも本を愛し、本に魅せられた人たちの生業という共通点。三浦さんの描くお仕事世界を独特な空気感と共に楽しませていただきました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 三浦しをんさん
感想投稿日 : 2020年3月19日
読了日 : 2020年3月18日
本棚登録日 : 2020年3月19日

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