天国はまだ遠く (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (2006年10月30日発売)
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『死にたい』と思ったこと、考えたことってどれくらいあるのでしょうか。生まれてから今日まで、あの場面、あの場所で色んな辛いこと、辛い時間を過ごし、深い気持ちではなかったかもしれませんが『もう死んでしまいたい』と一瞬でも思ったことがあったようにも思います。でも、今振り返ってみて、それが、いつ、どこで、どんなことでそう思ったのか、具体的なイメージとなるとどうしてもぼやけてしまいます。思い出せません。人はそんな辛い瞬間をいつまでもはっきりと記憶し続けるようにはできていないのかもしれません。そして、ひとつ言えるのは、少なくとも今は『死にたい』なんて全く思っていないということです。さらに、もうひとつ言えるのは、過去にそう思った瞬間が間違いなく自分にもあったのだとしても、その時に死んでしまうという決断を本気でしなかった自分、よくやった、よく持ちこたえたなということです。

『会社に行かなくてはいけないと考えるだけで、毎朝、頭が痛かった。それなのに、私は会社を休むこともできなかった。休みの日も、会社のことを考え、月曜日のことを考え、不安になった。』会社員は気楽なものという言い方がされる時がありますが、そんな言葉とは裏腹に毎日たまらなく辛い日常を送っている方も多いと思います。ギリギリの毎日を送る主人公・山田千鶴。『今日実行しなかったら、私はきっとくじけて、せっかくの決心を取りやめてしまう。そして、どろどろした日々の中にまた戻ることになる』と、死を選ぶ決意を強くした千鶴。死に場所を探し求め、人里離れた木屋谷という山村の民宿に辿り着きます。そして、死を前に逡巡する千鶴。『いったい死んだらどうなるのだろう、私の身体は、魂はどうなってしまうのだろう。』決意して死への眠りにつく千鶴。

『今までいろんな失敗をしてきたけど、まさか自殺をしくじってしまうなんて』、そして人里離れた民宿での千鶴の生きることに向き合う日々が始まりました。『一度、死に向かう怖さを知ってしまうと、繰り返すことは不可能だ。』死とは完全に決別し、でもこれから何をしたらよいのか全く思いつかない千鶴。民宿の主人・田村との一つ屋根の下での生活。『自然のリズムが身体にも移って、夜は勝手に眠くなり、朝は勝手に目が覚めた。』人間にとって自然な生活は今までの千鶴の疲れをじっくりと癒していきます。思えば、街に住む人は田舎の暮らしに憧れ、田舎に暮らす人は都会の生活に憧れる、すごくステレオタイプな考え方かもしれませんが、実際にその思いが具体的な行動に繋がる人も多いと思います。でもその一方で、街で暮らし続けることが、もしくは田舎で暮らし続けることが、もうそれしか考えられないという、そういう人もいます。具体的に何がどうこうという以前に、人はそれぞれ自分の居場所というものを本能として持っているのかもしれません。

命を失わずにすんだ場所。でも『ここで暮らすのは、たぶん違う。ここに私の日常はない。ここにいてはだめなのだ。』気持ちが落ち着けば、気持ちの整理がついて冷静さを取り戻せば取り戻すほどに人は本能が蘇ってきます。思えば、死にたいほどの気持ちに苛まれるというのは、本能に逆らって行動しているからなのではないでしょうか。そして、心のどこかで違和感の警告が出されて反応した結果が死への思い、その瞬間、その場所から逃げ出したいという思いに繋がっていくのかもしれない。だから、そんな思いが消えて落ち着いてしまうと、死にたいなんて思っていたことさえ忘れてしまう、そういうものなのかもしれません。

あとがきで、この作品は丹後の中学校に赴任していた瀬尾さんが、その時の経験を踏まえて書かれたものだということがわかりました。リアルな自然の描写と人の優しさ、そして、『お米、甘いですね』という正真正銘の取れたてのお米を炊いた夕食の場面の描写など、瀬尾さんならではの食材とそれを彩る食事風景の場面の描写が、千鶴の心の内の微妙な変化を感じさせるように、とても繊細に描かれているのが強く印象に残りました。

『死んだらあかんで。生きてたらええことあるわ。』、一見どうということもない民宿の主人が千鶴に投げかけてくれた言葉。それを、適当なこと言うと感じた千鶴でした。でも、この言葉が全てじゃないのかなって思います。『何十年かけても変わらないこともあるけど、きっかけさえあれば、気持ちも身体もいとも簡単に変化する』その時、その瞬間がどんなに辛くても、死ぬしかないと思えても、きっかけさえあればそんな気持ちなんて一瞬にして過去のものになってしまう。少なくとも、今の私にはこの考え方がスッと入ってきました。

「天国はまだ遠く」、そう、まだまだやりたいこともあるし、読みたい本もある。天国になんてまだまだ行く時じゃない。きっかけなんて何でもいいんだなって、読み終わって、素直にすごく気持ちが楽になった、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 瀬尾まいこさん
感想投稿日 : 2020年3月13日
読了日 : 2020年3月12日
本棚登録日 : 2020年3月13日

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