サヴァイヴ (新潮文庫)

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  • 新潮社 (2014年5月28日発売)
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あなたはスポーツをしますか?そのスポーツは団体競技ですか?それとも個人競技ですか?

この世には数多のスポーツがあり、それぞれに競技者がいて、それぞれにその観戦を楽しみにしている人がいます。するのは嫌いでも見るのは好きという方含めて、スポーツには誰でも何かしら関心を持っているのではないでしょうか?そんなスポーツは団体競技と個人競技に分かれます。そのいずれを好むかは個人の嗜好や性格にも大きく左右されるものだと思います。

チームの勝利が全てと、お互いがライバルでありながらも一致団結して勝利を目指す団体競技。一方で自分を高めることに全てを賭け、孤独な日々の中に勝利を掴んでいく個人競技。こうして改めて考えてみても、そのいずれが自分に向いているかは人それぞれとも言えそうです。

しかし、この世の数多のスポーツにはそんな考え方だけでは分類できないスポーツが存在します。チームとして『最善の成績を残』すことを目的とするそのスポーツ。一方で『ひとりのエースと、その他のアシストたち』に分類されるそのスポーツ。そんなスポーツでは『アシストたちは自分の勝ちを目指』さず、あくまで『勝ちたいという本能を殺し、ただエースの勝利のために奉仕』すると言います。

さて、そんな特殊なスポーツの世界に生きる選手たちを描いた作品がここにあります。「サヴァイヴ」という書名のこの作品。それは、近藤史恵さんの代表作でありシリーズ化もされている「サクリファイス」の三作目、『自転車ロードレース』に人間ドラマを見る物語です。

ということで、「サクリファイス」シリーズの三作目として登場したこの作品は、六つの短編から構成された短編集となっています。では、そんな作品の中から最初の短編〈老後ビプネンの腹の中〉の冒頭をいつもの さてさて流でご紹介しましょう。

『ぼくを取材したいと言ってきたのは、日本の若い男性向けのファッション誌だった』という雑誌の取材のためにパリを訪れたのは主人公の白石誓(しらいし ちかう)。『フランスに移り住んで四ヵ月、まだパリは珍しく、観光客気分で楽しい』と思って出かけた取材の『結果は憂鬱なもの』となります。『ロードレースのことなどなにも知らなかった』というフリーライターの田辺は、誓のことも『取材にあたってはじめて知った』ようでした。『はじめて知ったというのは別にかまわない』と思うものの『会う前から、どんな記事にするかという青写真ができてい』たと思われる田辺は、『取材対象を刺激することで本音が引き出せる』という取材姿勢で誓を苛立たせます。『なぜ、勝つことができないのか』という質問にこだわり、『ロードレースがチーム競技である認識もない』田辺。そして『約束の一時間が終わ』って『時間がきたので』とさっさとその場を立ち去ろうとした誓の『携帯電話が鳴』りました。『以前のチームメイトであるマルケス』からのその電話は、『パリのホテルで』旧友の『フェルナンデスが死んだという知らせ』でした。妻も向かおうとしているが『今日の飛行機の切符が取れない』、『時間があるのなら、警察に遺体を確認に行って』欲しいと言うマルケスに、『これからすぐに向かう』と電話を切った誓。そんな誓の電話に聞き耳を立てていた田辺は、『警察』という言葉が聞こえたことで『一緒に行っていいですか?』と聞いてきました。『人からの頼まれごとなんです。あなたには関係ない』と振り切って目的の警察署へと一人向かった誓。そして案内された彼の前には『見慣れた男が横たわって』いました。『いったい、どうして』と立ちすくむ誓に『ドラッグだろうと医師は言っている』と告げる警察官。そして二日後、『フェルナンデスの死のニュースが』流れると、田辺から電話がかかってきました。『ひどいですよ。白石さん… スクープが取れたのに』と、自分を振り切った誓にクレームを言う田辺に、『用があるんで切りますよ』と冷たく答える誓。そんな誓に田辺は『今週末のパリ・ルーベ見に行きます』、『白石さんの優勝を日本人として楽しみにしています』と告げました。『ぼくが勝てる確率など、ゼロに等しい』と思う誓が、『過酷すぎて、アシストが出る幕がな』く、『北の地獄』とも言われる『ワンデーレースの最高峰』『パリ・ルーベ』へと臨む姿が描かれていきます…という最初の短編〈老後ビプネンの腹の中〉。『ロードレース』について全く無知な記者とのやりとりを通じて、シリーズを読んできた読者の物語に対する記憶を呼び覚ますと共に、五十キロもの石畳を走り抜けるという独特なレースに挑む誓の姿を見事に描き出した好編でした。

『最近はファンも増えてきたが、まだ日本では自転車ロードレースはマイナースポーツだ』という『自転車ロードレース』に光を当てた近藤さんの大人気シリーズの三作目であるこの作品。それまでの「サクリファイス」、「エデン」のいずれもが長編小説として主人公・白石誓の活躍を描いてきたのに対してこの三作目ではそれぞれが独立した短編として構成されています。しかし登場するのは誓の他、今までのシリーズに名前が登場した面々なので順に読んできた方にはスーッと物語世界に入っていくことができると思います。そんなそれぞれの短編について、光が当てられる主人公と共に簡単にご紹介しましょう。

・〈老後ビプネンの腹の中〉: 白石誓が主人公。『不快な気持ちになる質問を次から次へとぶつけてくる』というフリーライター・田辺の取材の後、旧友フェルナンデスの死を知った誓は、『パヴェという石畳区間がある』『パリ・ルーベ』のレースへと出場します。

・〈スピードの果て〉: 伊庭和美が主人公。街中で『幅寄せ』をして自転車を煽るバイクと遭遇。『脇道から、ワゴン車が飛び出し』、『男は路上に叩きつけられた』という瞬間を目撃した伊庭は、『山梨で実業団のクリテリウム』に出場しますが、目撃した事故の『あの光景がフラッシュバック』し、『ペダルがうまく動かせな』くなります。

・〈プロトンの中の孤独〉: 赤城直輝が主人公。同タイミングでオッジに加入した『石尾の相談役になってやってほしい』と監督から言われた赤城。石尾と久米という新旧エースのぶつかり合いに悩まされる中、『ツール・ド・ジャポンと並ぶ』『北海道ステージレース』へと出場します。

・〈レミング〉: 赤城直輝が主人公。久米が去りエースとなった石尾。しかし、『献身的なアシスト』に『感謝の気持ちを見せることはない』石尾にチームの不満が燻ります。そして『沖縄ツアー』へと出場する石尾に『続けざまに二度の失速とリタイア』という謎のトラブルが発生します。

・〈ゴールよりもっと遠く〉: 赤城直輝が主人公。『去年は石尾が優勝した』という『九字ヶ岳ワンデーレース』へと出場予定だったオッジに、開幕直前に『書類不備』により出場できないという連絡が入ります。そんな中、石尾に他のチームのスカウトから接触があり移籍が噂されます。

・〈トウラーダ〉: 白石誓が主人公。リスボンにあるチームへと移籍した誓は、彼の地での『暮らしを満喫してい』ました。そんな中、闘牛観戦に誘われた誓は、『背中に突き刺さった銛が、少しずつ牛の力を奪っている』という場面に衝撃を受け『寝込んでしま』います。そんな誓を『ドーピング疑惑』をかけられたルイスが見舞います。

六つの短編は、今までのシリーズに登場した三人の人物が主人公となって登場し、レースへと出場していく様子が描かれていきます。このシリーズを読むまで『自転車ロードレース』について一切の知識を持たなかった私ですが、「サクリファイス」、「エデン」と読んできてすっかりその世界に魅了されると共に、そんな特殊なスポーツの考え方にも馴染んできました。それは、

『自分の勝ちを目指すことだけが自転車ロードレース選手の目標ではない。ロードレースは団体競技で、たったひとりのエースを勝たせることが大事だ』。

というそのスポーツの特殊な立ち位置です。数多のスポーツは個人競技と団体競技に分けられると思います。前者で表彰されるのは当然に個人です。一方後者ではMVPという概念が入る余地があったとしても表彰されるのはあくまで団体です。このそれぞれの位置付けには疑問を挟む余地はありません。一方で、この作品が取り上げる『自転車ロードレース』では、団体としてチームの勝利を目指すにも関わらず、表彰されるのはあくまで個人であるという点が大きな特徴です。『ゴールを目指さない。ゴールなど見えない。たとえ、ゴールゲートに辿り着いても、それはなんの意味もない』という『アシスト』という存在が『エースがゴールに飛び込んでくれると信じて』献身的にエースを支えて彼を勝利に導くというその競技のあり方は他のスポーツ競技にはあまり見られないものだと思います。この作品では、そんな側面により光が当てられていました。そんな中でも特に強く印象に残ったのは、〈プロトンの中の孤独〉と〈レミング〉という密接に結びついた二つの短編でした。チーム・オッジのエースとして活躍する久米は、『専制君主』、『暴君』としてチームメイトに接してきました。それに対してエースを引き継いだ石尾は『アシストたちの動きにほとんど関心を示さない』という対極的な態度でチームメイトと関わっていきます。『彼にとってはエースもアシストも対等』と、それだけ聞くと一見何の問題もないと思える石尾ですが、このスポーツならではの感覚がそんな一般的な理解が間違っていることを示します。『自分の勝利のことを忘れ、エースのためだけに身を尽くす』という『アシスト』、『エースの風よけになって体力を使い、エースがパンクしたときには自分のホイールまで差し出すこともある』という『アシスト』の立場からすると、そんな石尾のクールな感覚には『アシストする側の気持ちはそれだけでは済まない』という思いが生まれてくるというドラマがそこには描かれていました。なんとも複雑な感情が交錯するそのスポーツ、一方でそんな深い人間ドラマが描かれるこの作品は、この国で決して知られているとは言い難い『自転車ロードレース』の魅力を私たちに垣間見せてくれるものだと改めて思いました。

『ひとりのエースと、その他のアシストたちだ。アシストたちは自分の勝ちを目指さない。勝ちたいという本能を殺し、ただエースの勝利のために奉仕する』。

『自転車ロードレース』なんて知らない、興味もない、それがこのシリーズを読む前の私の正直な気持ちでした。単に”本屋大賞”にノミネートされたことがある作品、それ以上に興味を持つわけでもなく読んだ「サクリファイス」。そこには、全く想像もしなかった奥深い人間ドラマが繰り広げられる世界を垣間見ることができました。このレビューを読んでくださっている方の多くは恐らく『自転車ロードレース』をあまりご存じではない、興味もないという方だと思います。そんなあなたにおすすめしたいのがこのシリーズ。上記した通り、団体競技なのに『リザルトに残るのが個人の名前なのだ』という極めて特殊なスポーツにきっと夢中になる、私の如く、二作目、三作目と手にして夢中で読んでしまう、そんなあなたの姿がきっとそこにはあると思います。

『後ろを走る俺たちには、エースがゴールを切る瞬間も見えない。それでもそれを思い描く。彼ならば絶対にやってくれると信じながら』という『自転車ロードレース』における『アシスト』の存在に光を当てるこの作品。六つの短編に取り上げられたさまざまなレースの場面が、手に汗握るようなスポーツ観戦の醍醐味を味わわせてもくれるこの作品。近藤史恵さんの「サクリファイス」シリーズの中でも傑作中の傑作だと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 近藤史恵さん
感想投稿日 : 2022年5月23日
読了日 : 2022年2月20日
本棚登録日 : 2022年5月23日

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