『僕のへそのを緒を見せて!』母親にそうねだった私。そのものを見たいわけじゃない、自分の母親が本当に自分の母親なんだという証拠が欲しかった私。桐箱に入れられた貝の干物のようなそのへその緒を見て安堵する私。小さい頃、自分の親が本当の親かどうか不安になる瞬間、気持ちって多かれ少なかれ誰にでもあるのではないでしょうか。一方で、生みの親と育ての親という役割で説明されるように、親と子は必ずしも血が繋がっていることがすべてというわけではありません。そういった場合、そのことについて、子どもが物心ついたタイミングを見計らってその関係を伝える場合が多いのではないかと思います。自分と親の関係を正しく理解してその関係を深めていく。では、今この瞬間まで母親だった人と、強引に引き離され、代わりに現れた見も知らぬ女の人が、私があなたのお母さんよ、と告げたとしたら、そして今まで母親だと思っていた人とは二度と会うことない未来が、なんの前触れもなく突然訪れたとしたら、その時、その子は何を考え、どのように行動していくのでしょうか。この作品はそんな数奇な人生を送ることになる赤ん坊の物語です。
『氷を握ったように冷たい。その冷たさが、もう後戻りできないと告げているみたいに思えた』と、ドアノブを掴むのは野々宮希和子、二十九歳。この時間帯は『ドアは鍵がかけられていない』ことを知っていた希和子。『ついさっき、出かける妻と夫を希和子は自動販売機の陰から見送った』という希和子はドアノブを回して部屋の中に入ります。『何をしようってわけじゃない。ただ、見るだけだ。あの赤ん坊を見るだけ。これで終わり。すべて終わりにする』と思う希和子。そのとき『襖の向こうから、泣き声が聞こえてきて、希和子はびくりと体をこわばらせた』、襖を開けると『赤ん坊は手足をばたつかせて泣いている』という光景を目にする希和子。そして『爆発物に触れるかのごとく、おそるおそる手をのばし』ます。『妻は夫を、最寄り駅まで車で送っていく。赤ん坊を連れていることはなかった』という予定された結果論としての目の前の光景。『私だったら、絶対こんなところにひとりきりにしない。私がまもる。すべてのくるしいこと、かなしいこと、さみしいこと、不安なこと、こわいこと、つらいことから、私があなたをまもる』と思いつめる希和子は、『コートのボタンを外し、赤ん坊をくるむようにして抱き、私はがむしゃらに走った』と、赤ん坊を連れ出します。『向こうからやってくるタクシーが空車であると読みとるやいなや、反射的に手を挙げていた。「小金井公園まで」』、そして朝の閑散とした公園に着いた希和子は『まずすべきこと。名前だ。そう、名前』、『薫。真っ先に思い浮かぶ。かつてあの人と決めた名前。男でも女でも通用する、響きの美しい名前をいくつも挙げ、そのなかから選んだのだった』と赤ん坊の名前を決め『薫、薫ちゃん』と呼びかけるのでした。行く宛のない希和子は『あのね、康枝、助けてほしいの』と友人に電話をかけ、数日間面倒を見てもらいます』。そして、新聞記事を気にする希和子。『昨日も、新聞には何も出ていなかった。きっと今日もだいじょうぶだ』と毎日不安な日々を送ります。そして、康枝の元を後にする希和子。『解約したばかりの永福の住所と、でたらめな電話番号』を書いて康枝に手渡した希和子。『ふりかえって私も幾度も手をふった。ひょっとしたらもう二度と会えないかもしれない友だちに』、と希和子と薫の逃避行が始まりました。
他人の赤ん坊を連れて逃げるという大胆な展開を軸とするこの作品。二つの章から構成されていますが、第1章では、希和子と薫の逃避行が、そして第2章では大学生になった恵理菜(薫)の日常生活と過去の振り返りが描かれていきます。作品の構成からいってもメインとなるのはあくまで第1章だとは思いますが、読み終わって後に残る印象は圧倒的に第2章の重苦しい雰囲気でした。
まずその第1章ですが、そもそもそれ以前にこの作品はとても不思議な作りをしているように思いました。子供が連れ去られるという大きな犯罪がこの作品の核を占めているにもかかわらず、描かれるのは子供を連れ去った側の理屈です。第1章の全てに渡って視点はあくまで希和子視点。そこには複雑な背景に立つ希和子の事情が語られ、そして読者が魅かれていくのは薫を自らの子供のように見る『母』としての眼差しです。育児は当然初めての希和子。『隅々まで洗った風呂にお湯をため、薫と入る。薫は、お湯に浸かると大人みたいな顔をする』と薫の表情の変化に見入る希和子。『目を細め、口を開け、ほうと息をつくのだ、なんという幸福がこの世のなかにはあるんだろう』という母と子の幸せな瞬間の描写。また、『うっすらと目を開けると、真ん前に薫の寝顔があった』と添い寝する希和子。『ちいさな顔、薄く開いた唇、したたる透明のよだれ。薫の、なまあたたかい息が私にかかる。なんという幸福』という希和子の心から幸せを感じる表情が目の前に浮かびあがる描写。これらが二人の関係を仲睦まじい本物の母と子であるかのように感じさせていきます。目立たないように息を潜める日々、当て所なくあちらこちらを彷徨う日々、そして未来の姿が見えてこないふたりの日々が描かれていくと、読者としては逃避行する希和子に自然と感情移入して、思わず『逃げ切って欲しい』とさえ感じてしまう、この感情が生まれるのは必然の流れとも言えます。でも、どこまでいっても、これは『幼児誘拐』という犯罪行為です。薫の本当の親である秋山夫妻視点から見れば、ここで読者が抱くことになる感情は全くありえない話です。この辺り、少し冷めて見てしまうと、そこには全く違う世界が見えてくるようにも思いました。もちろん、この作品のテーマ的には問題にするのはそこではないとは思いますが、視点の位置をどこに置くかで全く違う世界が見れるということをとても感じました。
そして、次にとても重い内容が展開する第2章ですが、そこには『誘拐犯に育てられた子』というレッテルを貼られた恵理菜(薫)の苦しみが描かれていました。『払っても払ってもつきまとう蝿のようなもの』と表現されるその毎日。学校生活のみならず、数多く出版される書籍の記述によって奇異な目で見られる毎日。『私の感じていたうっとうしさと、本に書かれた事件とは、私のなかで結びつかなかった』という自分のことなのに他人の話を読んでいるかのような感情の交錯。そして、それは恵理菜(薫)の『なんで?なんで私だったの?』という素朴でありながら核心を突く叫びへと繋がっていくのは必然のこととも言えます。しかし、そんな苦しみを『私のいる場所はもうここしかないのかもしれない』という現実への理解と諦観の気持ちに持って行かざるをえない恵理菜(薫)。想像を絶するような苦しみ、誰にも分かってもらえない苦しみ、そして終わりの見えない苦しみからくる心の叫びが章を通じて息苦しいまでに伝わってきました。
『ここではない場所に私を連れ出せるのは私だけ』、かつて抱いた気持ちが恵理菜(薫)の心に蘇る瞬間、『どこかにいきたいと願うのだったら、だれも連れていってなんかくれやしない、私が自分の足で歩き出すしかないのだ』と顔を上げる恵理菜(薫)。大人の身勝手な理屈に翻弄されることで始まったその人生。『八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから』という視点の切り替え。『見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと、私は思うよ』という千草の言葉を思い出す恵理菜(薫)。『憎みたくなんか、なかったんだ。私は今はじめてそう思う。本当に、私は、何をも憎みたくなんかなかったんだ。あの女も、父も母も自分自身の過去も』と気づいたその先に、恵理菜(薫)だからこそ見える、恵理菜(薫)だからこそ歩むことのできる誰も見たことのない、新しい未来の景色が見える結末が待っているのだと思いました。
重くのしかかるストーリーに圧倒されながらも、希和子と恵理菜(薫)がそれぞれ歩んできた過去と、これから歩んでゆくことになるそれぞれの未来に、静かに思いを馳せることになる読後の深い余韻。海面で光が踊るその感動の結末に心が震わされる角田さん渾身の傑作だと思いました。
- 感想投稿日 : 2020年6月19日
- 読了日 : 2020年6月18日
- 本棚登録日 : 2020年6月19日
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