龍宮 (文春文庫)

著者 :
  • 文藝春秋 (2005年9月2日発売)
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『起きるのは、早い。たいがい、私のほうが妻よりも先に目覚める』。

…という一文から始まる物語の冒頭。

『ふとんの中は暖かいが、鼻先は冷たい。すぐに便所に行きたいと思うのだか、なかなかふとんから出る決心がつかない』。

…と続いていく物語を読むと、なんだかのどかな日常を描いた物語が始まったのかな?という印象を受けます。しかし、そんな物語に、

『拾ってきた人間たちは、次の間にいる』。

…というような一文が差し込まれたとしたらどうでしょう?その瞬間、のどかな物語世界に一気に不穏な空気が漂いはじめます。

私たちが物語を読むとき、どのようにその内容を理解していくでしょうか?登場人物を理解し、場面設定を理解し、そして物語の世界観を理解していく。物語世界に入っていくには、登場人物たちへの感情移入も欠かせません。物語世界を第三者的立場で理解しているかぎり、その世界の素晴らしさを理解することなどできないからです。でも、そんな風に感情移入をしようと思った登場人物が『拾ってきた人間たちは』などと語ると、一気に身構えてしまいます。『ひとめぼれ、というのだろうか』と始まって、恋の話かと思った物語が『父方の先祖の男に、ひとめぼれしたのである』と語られると、意味がわからなくもなります。さらには、『海から上がって、もうずいぶんになる』などと始まる物語があると、最初から意味不明!と気持ちが引いてもしまいます。

しかし、世の中には一生かかっても読みきれない数の物語が存在しています。そんなおびただしい数の物語の全てを、上記したような、ある意味定石な読み方で理解することができると考える方がおかしいのではないでしょうか?

そう、そんな定石だけで読み進められる物語ばかりではつまらない。そんな定石を飛び越えて楽しめる物語があってもおかしくない。それこそが小説を読む楽しみではないのか?、ここにそんな視点の先に存在する物語があります。川上弘美さん「龍宮」。それは、感覚を先行させて楽しむ物語。摩訶不思議な世界観を楽しむ物語。そして、それは、物語を一つのアトラクションのように感じるその先に読書の一つの楽しみ方を見る物語です。

さて、「龍宮」というと昔話の浦島太郎の物語が思い浮かびます。海の底深く神秘的な世界で”鯛やヒラメの舞い踊り”を見る浦島太郎…と、よく考えると不思議感いっぱいなその物語。しかし、同じ「龍宮」と言っても川上さんがこの作品で描くのはさらに異世界に入り込んだような物語です。読者の理解を拒むかのようにそそり立つ壁の向こうに展開する摩訶不思議、そう不思議世界のイリュージョンが繰り広げられるのがこの作品です。八つの短編が収録されていますが、その不思議世界は八つとも異なります。そんな中からその雰囲気を感じていただくために〈鼹鼠(うごろもち)〉の冒頭をいつもの さてさて流 でご紹介しましょう。

『毎朝のことを話そう』と『たいがい、私のほうが妻よりも先に目覚める』と、話し出したのは主人公の『私』。『起きるなり掃除をはじめたり、鍋を火にかけたり』と家事を進める妻の傍らで『昨日やおとといや、それよりもっと前に拾ってきた人間たちを見まわる』という『私』。そんな『拾ってきた人間たちは、次の間にい』ました。『おおかたが寝そべっている』という『人間たち』の『肩を軽く叩いてまわる』『私』は、その目的を『生きているかどうかを確かめるためが、第一』、『じきに出ていくのか、それともまだしばらくここにいるのかを調べるためが、第二』と考えています。そんな朝の日課を終えた『私』は、『電車を二本乗りついで』出勤し、『タイムカードに刻印し』、席に着きます。『会社に入りたてのころは、石をなげつけられたり腐ったものをぶつけられたり』したもののすっかり慣れられた『私』は、『かなり、毛深いんすね』と言われる程度で気に留められない存在になっています。『お昼までパソコンに向かって、おもに統計処理をする』という『私』は『昼休みのことを話そう』と、今度は『妻のつくってくれた弁当』の食べ方を、『私は箸も使うが、てのひらも鉤爪も活用する』と語ります。そして食べ終えた『私』は『駅前の公園へ』と赴きました。『ダンボールにくるまった人間たちがたくさんいる』という公園で『あんた、人間じゃないだろ』とダンボールの人に言われ『人間じゃないですよ、むろん』と答えると『なにいばってんの、動物のくせに』と言われます。それに『人間だって動物の一種ではありませんか』と反論すると『ま、そりゃそうだな』とやりとりは終わります。『浮浪者は、あまり喋らない』と思う『私』は、『浮浪者を拾うことは、まずない。私が拾うのは、もっと安定しない人間たちだ』と言います。そんな『私』は仕事を終えて居酒屋へと入りました。『このへんに、アレ、いますかね』と若い衆に聞きながら『店の中をみまわすと、アレが二人も三人も、いる』のに気づいた『私』。『白目が濁って、ひどく疲れた様子のアレもいるし、あおく澄んだ目の、うなだれたアレ』もいるという店内。そんな『私は鉤爪で、アレの背中をひょいとひっかけ』ました。『次第に小さく縮』み、『そのうちに私の半分くらいの大きさになり、やがては掌に載るくらいにまで小さくな』ってしまった『アレ』。そんな『アレ』を『カシミヤのコートのポケットに』『つまみ入れる』『私』。『アレ、けっこう、いました』と再び若い衆に語りかけると『ありゃー、うちの店にもいましたか』と肩をすくませた若い衆は、『アレ、っていったい何なんすか』と訊きます。それに『さあねえ、私にもよくわからないけど』と答える『私』は、『アレは、この十年ほどで突然増えた』と『アレ』のことを思います。『死にもせず、生きもせず、ただそこにあって、周りを浸食する者。そしてまた、自身を浸食する者』のことを『アレ』だと思う『私』。そんな『人間を拾いはじめたのは、この数年来のことだ』というそんな『私』の不思議感溢れる日常がさらに描かれていきます。

というようにこの作品のそれぞれの短編には、スラスラ読むことのできない引っ掛かりを感じる”存在”が主に主人公を務めるという共通点があります。また、そんな作品にほぼ共通で登場する”あること”があります。この二点から見てみたいと思います。

まずは、あまりに摩訶不思議を感じるそんな主人公たちです。せっかくですので、幾つかの短編をご紹介しましょう。

〈狐塚〉ヘルパーとして正太の元へと週二で通う53歳の女性が主人公。正太は、『アブラゲが好き』、『ときどき「ケーン」と言う』、『口からもやもやした白いものを空中に漂わせる』という『独り暮らしの九十三歳』。

〈島崎〉『さかのぼって七代前の』先祖に『ひとめぼれ』したという女性が主人公。『たぶん四百ちょっと過ぎくらい』という先祖の男は、『妻がセックスをしてくれません…妻は私より六十歳年下です。羽曳野市二三〇歳男性』といった内容への人生相談を仕事にしている。

〈海馬〉『海から上がって、もうずいぶんになる』、そして現在子供が四人いるという『私』が主人公。最初は『首に輪をはめられて』杭につながれていたという『私』。『海のそばには置かぬこと』という引き継ぎを受けた複数の『主人』と暮らす。

といった感じで、これらの存在は、普通の人間のようであって普通の人間では決してないようで…という非常に微妙な表現で形容されながら物語の中に登場します。あなたは、物語を読む時にどのようにその世界に入っていくでしょうか?作者によって独特な世界観に彩られたその世界。そんな世界を楽しむためには、当然にその状況を理解しなければ始まりません。もしくは、登場人物の誰かに感情移入もしたくなりますが、八つの短編とも、読者のそんな思いを決して叶えてはくれません。年をとったおじいさんだ!と思っても『ケーン』と鳴くと言われたら意味不明です。先祖に恋をしたといっても七代前ってありえないでしょ?とこれまた意味不明です。そして、海から上がって?という『私』ですが、子供もいますし、普通の主婦のようなのに頭に浮かぶのは章題のままの『海馬』の姿。これも全くもって意味不明です。そんな意味不明な”存在”に感情移入なんてとてもできはしませんし、最後まで意味不明なまま、どんどん短編は結末を迎えていきます。う〜ん、実に難解だ。なんと、難解な作品なんだろう、と悩みながらの読書が続きます。

そんな八つの短編はもう一つの共通点を持っています。それが、『ううん、いい感じなんだけど、珍棒はどうにもならない。血の流れとかの問題だろうね、やっぱり年だな…血も珍棒も弱るさ』と、いきなり登場する大量の性表現の数々です。この表現は、上記した〈狐塚〉の中で、『ケーン』と鳴く93歳の正太の台詞です。なんとも生々しい表現ですが、これはこの短編に留まりません。霊力を持つという『曾祖母イト』が登場する表題作〈龍宮〉では、『はじめて交合の意味を知った』という14歳のイトが、『どこまでが男なのかどこまでが女なのかわかつこともせず、一晩じゅうまじわった』、それによって『あたしは、また霊力を得た』と、その様が描かれていきます。そして、上記した〈海馬〉では普通の人間とはとても思えない主人公が最初に一緒に住んだ男について、『男はしばしば外で女と乳くりあっていた…女が出てゆくと、私と男はすぐさままじわった』というように、まるで普通の人間の男女であるかのような性の営みを垣間見せていきます。

上記したように、兎にも角にも違和感満載の不思議な登場人物が、それでいて、やけに艶かしい、もしくは荒々しささえ感じるような性表現の数々とともに描かれていくこの作品。そのあまりに強烈な個性に、ますます捉えようがなくなるのを感じる中で戸惑いだけが私を包み込むのを感じました。そして、あまりの戸惑いに一旦本を置いてブクログをはじめとしたレビューを読んでみることにした私。そこで、なるほど、そうか!という感覚を掴みました。それは、

・この作品を自分が知っている世の中の事ごとに当てはめて理解しようとしてはいけない。これは、”川上ワールド”全開な作品である。

ということでした。なるほど、そうでした。川上弘美さんは芥川賞作家さんでもいらっしゃいます。私が今までに出会ってきた芥川賞作家の皆々様。綿矢りささん、今村夏子さん、そして小川洋子さん。いずれの作品もそのかっ飛びぶりに驚くと共に、そのかっ飛びぶりを楽しむことを目的にそれぞれの作品を手にしてきました。川上弘美さんの作品はこれで三冊目、最初に読んだ「センセイの鞄」の感覚を川上弘美さんだと理解して読んだのが間違いだったと気づきました。それがわかってしまえばこちらのものです。この作品は、

・かっ飛んだ世界観を楽しむ作品。かっ飛んだ世界観にどっぷり浸る作品。そして、かっ飛んだ世界観に酔う作品。

そう、これからこの作品を読まれる方には、是非このことを理解した上で、作品を手にしていただきたいと思います。そうすることで、各短編の摩訶不思議な設定が”川上弘美ランド”の人気アトラクションのようにも見えてくるのではないかと思います。そして、そんなアトラクションの楽しみ方は、人それぞれ、そんな視点でこの作品を読むとその独特な魅力がふっと浮かび上がってくるのではないかと思いました。

『めんどうくさくなると、正太はいつもケーンと鳴くのだ』、『食べるときに、私は箸も使うが、てのひらも鉤爪も活用するのである』、そして『おれはその昔蛸であった。蛸の大冒険の話をしてやろう』と、登場人物が人のようでいて、人ではないというなんとも摩訶不思議な世界観に包まれたこの作品。それは、独特な世界観の中に展開する川上弘美さんならではの物語でした。この世のことであるようで、この世のことではない、独特な世界観の中に、それでもそこに親が子を見る感情など、人の心を感じさせるこの作品。一見とらえようのない物語世界の中に、どこか寂しく、どこか虚しく、そしてどこか哀しい人の世の移ろいを感じた、不思議感溢れる作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 川上弘美さん
感想投稿日 : 2021年12月1日
読了日 : 2021年8月27日
本棚登録日 : 2021年12月1日

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