空中庭園 (文春文庫)

著者 :
  • 文藝春秋 (2005年7月8日発売)
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『あたしはいったいどこで仕込まれたのか』

自分の出生について知りたい、そんな感情に囚われたことがあると思います。両親はどうして結婚し、自分はどこで生まれ、どうしてこの名がついたのか。でもこれらの情報にはある意味で肝心な一点が抜け落ちています。人が生物である限り、この世のどこかに『自分が在ることを決定づけた場所』が存在するはずです。そして、その場所がどこか、その時の二人の行動。自らの子どもに繋がる起点となった以上、両親が覚えていないはずがありません。そして、物心ついた子どもは自らの誕生に繋がるそんな起点があるという知識を持つ時が必ずやってきます。でも、だからといって、そのことを知りたい、教えてほしいと自分の親に聞く子どもはいないでしょう。この世にはどんなに親しい間柄であっても聞けないことがある。それを当たり前に感じる私は『隠しごとをする』家庭で育ったのでしょうか。そんなこと含め『隠しごとはしない』。なんでも、あらゆることを包み隠さず話せる家族、そんな家族は本当に存在するのでしょうか。

『あたしはラブホテルで仕込まれた子どもであるらしい』という京橋マナ。『十五歳という、非常に多感な年齢であるところのあたしがなぜ、自分の仕込まれた場所を知ったかといえば、理由はふたつある』という理由の一つは友人の木村ハナが『自分の両親は新婚旅行でアムステルダムに赴き、そのとき自分を妊娠した』と語ったから。それをきっかけに母に自分のことを聞くマナ。『インター近くにホテル野猿ってあるでしょ、あそこよ』と答える母・絵里子。『何ごともつつみかくさず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合おう』というのがモットーの京橋家。『ひどいネーミングのラブホで仕込まれて生を受けた』と嘆くマナ。翌日の朝『いつもの二人掛け座席に森崎くんを見つけ』、『出生決定現場』の話をするマナに『なんか、すげーな。あんたんち』と自分の家でそんなことは絶対聞けないという森崎。そんな森崎に『いきたい場所がある』と言うマナ。来月の誕生日に『インター付近にあるラブホテルにいきたいの、あのー、そーゆーことがしたいんじゃなくてなかがどんなか見てみたい』と言うマナ。『みるみるうちに赤面』した森崎。でも『なんなら今日でも明日でもいい、と森崎くんが言うのであたしたちは制服姿のままホテル野猿にきた』という急展開。『まず驚いたのが、その空間が、ひどくまっとうな部屋だったこと』と驚くマナ。『おー、カラオケ!おー、エロビデ!おー、ポテチまである!』と一通り騒いだ後、『小学生の学芸会のようにおたおたとたがいの距離を縮め、それから、キュー、という音をたてて唇を吸いあう』二人。『あたしは自分で上着を脱ぎ、ブラウスを脱ぎ捨て』た後、『もしさ、今日、もしだよ?なかで出してそれが卵子に届いたとしたら、あたしたちはすぐ家族になるんだね』と言うマナ。『制服を脱ぎ捨てる』森崎。しかし『彼の股間に手を伸ばし、森崎くんが勃起していないことを知る』マナ。『あー、だめだ あひー逃げてえー』と言う森崎。二人は仰向けに横たわります。『気にしないで』と天井を見つめるマナ。『それでぜんぜんかまわなかった。あたしは処女を捨てたかったのではなく、自分が在ることを決定づけた場所が見たかっただけだから』と言うマナ。そして、ホテルを出ての帰り道『まっすぐ家に帰りたくなかった』マナは、ふたつほど手前の停留所でバスを降ります。そして、偶然コンビニに母親の姿を見かけ、そして…。

6つの短編から構成される連作短編という形式をとるこの作品。長女・マナ、父・貴史、母・絵里子、祖母・さと子、家庭教師・北野三奈、長男・コウの6人に各短編ごとに視点が切り替わりながら、物語は前に進んでいきます。家族ではない北野三奈視点が入っているのが物語に印象的なワンポイントを与えているだけでなく外部者視点で物語の核になるような記述が多々出てきます。しかし、あくまで京橋家の人々が主役である点は変わりません。京橋家は『何ごともつつみかくさない』ということを何よりも大切にしています。その象徴とも言えるのが『あたしはいったいどこで仕込まれたのか』と聞くマナに気軽にその時の話をする絵里子という母子の関係。そして、『ねえねえパパ、今日ね、マナったらね、自分はどこで生を授かったかなんて訊くのよー』というような話を『ホットプレート』で餃子を焼いて食べながら語れる団欒の風景が象徴しています。『あたしたちの生活のなかに、恥ずかしいことも悪いこともみっともないこともあり得るはずがない』だから隠すことなどない、というのがその考え方です。しかし、視点の切り替えで6人が語る京橋家から見えてくるのは、崩壊寸前、もしくは崩壊しているかのような家族像です。中でも絵里子は自らの母・さと子との長い確執の日々を『私の抱える殺意』と表現し、自らが築く家庭はそんな風にはしないと誓います。そして、マナやコウが『それぞれの鍵で無人の家に足を踏み入れるような家庭には、それが日常と化すような家庭には絶対にしたくない』と意地でも彼らが帰宅するより前に家にいることにこだわる姿勢をとります。でも子供はそんな親もよく見ています。彼らが暮らす築十七年の『ダンチ』。絵里子が幸せの象徴と考えているそんな『ダンチ』の暮らしに、息子・コウは斬りこみます。『ママはここに最初に越してきたとき、なんて思ったか覚えてる?すごい、全部うまくいく!って、思ったんじゃない?』と問います。『子どもは無邪気、夫婦は円満、コミュニケーションはばっちし』と絵里子の記憶が蘇ります。そして『それが思いこみだってこと。思いこんでると、本当のものが見えないって話』と畳み掛けるように辛辣に語るコウに何も言い返すことのできない絵里子。『たしかに私は、光かがやくあたらしい未来にやってきたと思った』と自問する絵里子。そして『いや、過去形じゃない。私は今でも、光かがやくあかるい未来だと、あのとき感じた同じ場所に居続けている』と家族に変化が起こっている現実をあくまで否定し、過去の幸せな日々にすがりつきます。

そして、唯一の外部者視点となるコウの家庭教師・北野三奈の視点では、コウとの会話の中で虚飾にまみれた家族の内側を絶妙な表現で説明します。〈鍵つきドア〉の中に登場するその表現。それが『逆オートロック』です。『外部の人間には閉ざされたオートロック式のドアが、自由に出入りできる家のなかに存在している』というコウ。普段、京橋家の内側にいる者だから感じることのできる子どもならではの素直な感情。『その鍵は、外部に対して閉ざされているのではない。身内の侵入を防いで閉ざされているのだ』とその説明は淡々としていながらも、とても辛辣です。『五つのドアそれぞれの向こう側に、きっとグロテスクでみっともない、しかしはたから見たらずいぶんみみっちい秘密がわんさとひしめいて ー これから先ずっと繁殖しつつひしめき続けるのだろう』と家族のそれぞれが『隠しごとはない』と言いながら隠しごとにまみれた生活を送っていること、そしてそれは今後も続いていくだろうことを実に冷めた調子で指摘します。そんな京橋家の秘密の一端を知りうる立場の北野三奈は『閉ざされたドアの鍵をぶち壊すことなんかたやすいじゃないか』と感じています。必死でそれぞれの秘密を守り続ける家族、でも冷静に外から見ると、そんな彼らの努力が如何に空虚でたやすく壊れてしまうものであるかがよくわかります。そんな空中分解寸前の家族の情景を思い、それが描かれるこの作品のタイトルを「空中庭園」と名づけた角田さん。あまりに絶妙なタイトルの説得力に驚きました。

一見幸せそうに見える家族、どこにでもありそうな家族の幸せな生活をベースに描かれたこの作品。何が進むわけでもなく、何が解決されるわけでもなく、ひとつの家族のある一時点を切り取ったこの作品。京橋家は、この先も決定的に壊れないように、家族のそれぞれが絶妙なバランスを保ちながら、生活していくのだと思います。そして、事の大小はあるとは言え、基本的にはこの同じ空の下に暮らすあなたの家族も私の家族も実際には似たようなものなのかもしれません。みんなそれぞれに何かしらの秘密を抱えながら、それでいてこの世で一番親しい存在としてひとつ屋根の下に仲良く暮らす家族。一見平和そうに見えても、蓋を開ければ、あれやこれや、どんなものが飛び出してくるかはわからない。それも分かった上で、誰も開けようとはしない。それが家族という人間の集団なのかもしれません。

普段の日常の中で、家族というものをこんな風に冷めて考えたことはありませんでした。そんな考え方をすること自体、家族に対する裏切りではないか、そんな思いも当然にあります。こんなことは、小説の中の世界だと思いたい感情は読者全員に共通することだと思います。

でもそんなあなたに伺います。あなたは、家族に対して一切隠しごとはしていないと言い切る自信がありますか?

とても読み応えを感じた読書。非常に興味深い視点を与えてくれた、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 角田光代さん
感想投稿日 : 2020年7月21日
読了日 : 2020年7月19日
本棚登録日 : 2020年7月21日

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