勝手にふるえてろ (文春文庫 わ 17-1)

著者 :
  • 文藝春秋 (2012年8月3日発売)
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感想 : 736
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昔のひとは言いました。”初恋は実らないものですよ”、と。
昔のひとは言いました。”恋はする程艶がでる”、と。
昔のひとは言いました。”恋は死ななきゃなおらない”、と。
そして、主人公は言いました。『初恋の人をいまだに想っている自分が好きだった』、と。

誰もが上る大人への階段。誰にも訪れる青春の日々。そして、誰もが経験する初恋の切ない想い。では、そんな初恋の人と結婚にまで至る確率はどのくらいあるのでしょうか?ある調査によると、なんと1%ほどしかないというその数字。そう、圧倒的大半の初恋は、初恋のまま終わる、それが成就することなどありえないというその数字。でも、そんな数字を見てあなたはどう感じるでしょうか?どんなに好きでも長い間一緒にいれば嫌なこともあるでしょう。結婚すれば理想と現実という言葉が身に染みることもあるでしょう。いつまでも自分の心の中に、自分の心の中だけにひっそりと持ち続けるもの、あの時代の汚れなき想い出の一つとして大切に宝物の如く持ち続けるもの、初恋とは、そういったものであってもいいものかもしれません。

さて、ここに、そんな初恋の想い出を過去のものとしないで、いつまでも執拗に固執し続ける女性がいます。初恋の人を十年経った今も狂おしいほどに思い続けている、そして、そんな自分自身に恋をしてしまっている女性。これは、そんな女性が本当に好きなひとは誰なのかを探し求める物語です。

『両隣のトイレの個室は女性社員が入っては出て行き回転率が高い』という状況の中、『ふたをしめた便器のうえに座り頭を抱えていた』という主人公の『江藤良香(えとう よしか)、二十六歳、日本人、B型、…彼氏なし、貯金なし…』。『トイレから人の気配が消えて昼休みが終わ』っても、『どうしても出る気が起き』ず、『上司が呼びに来ても上からバケツの水がふってきても外に出たくない』という良香。『さぼりたいわけじゃない、辞めたいわけでもない、ただ会社が嫌なだけ』という心の内。『今日このまま帰って明日もあさっても会社には来たくない』と思う良香。『私には彼氏が二人いて、どうせこんな状況は長く続かないから存分に楽しむつもりだった』という良香は中学時代を振り返ります。『イーチ』『なんだよ』『呼んでみただけ』、と『朝イチが登校してくると活発なグループの女子たちが彼をふりむかせてくすくす笑う』という状況を横目に見る良香。『イチ寝ぐせついてるし』『ついてないだろ』『ついてるよ、後ろ髪うねってる、カワイー』と戯れるクラスメイト達。『さらさらの長い重たげな前髪、横長たれ目で微笑むとちょっとずるそうに見える、ぬれた黒目がちの瞳』と彼のことを『男子も女子もみんなが彼をかまいたがった』という状況。そんな彼のことを『イチ』と呼び、『イチに関心があることはイチ本人にも周りにもばれてはいけない』と心の中で特別視する良香。イチを主人公にした漫画『天然王子』を描いていた時、『なんで王子?』とページをめくりながら訊いてきたイチ。『一国のあるじになるから』と『なにも考えずに完全に口だけで喋った』良香に『ふうん。へんな髪型』と、意味が通じず行ってしまったイチ。別の日、先生からの言いつけで教室の黒板に『”ぼくは授業中私語を慎みます。”と白いチョークで書いていた』イチを放課後に見つけ、声をかけた良香。『一つくらい”ぼくは授業中私語を慎みません。”にしてもばれないんじゃないの』と言う良香に『書きかけの一文を”ぼくは慎みません。”にした』イチ。『間違い探しみたい』と言う良香は『信じられないくらいにうれしく』なります。そして『中学三年になるとイチとクラスが離れて』しまったものの、ある時彼の担任を訪ねると『一宮くんに反省文を書かせると一つか二つ、”遅刻します”とか”友達としゃべります”とかいう全然反省してない文がまぎれこんでるの、変な子でしょ』と言われ『甘いめまいでくらくらした』という良香。『その変な文章は私とイチが精神的につながっていることの証なんです』と心の中で叫ぶ良香。それから10年が経っても未だに気になる『イチ』の存在。そして、身近で気安く話せる存在である『ニ』とを天秤にかける良香。そんな今の良香が二人の男性のどちらかを選ぶ物語が始まりました。

当時26歳の綿矢さんが26歳の女性を主人公に描いたこの作品。本を開いてまず圧倒されるのは冒頭の一文です。『とどきませんか、とどきません』という十三文字のその表現。綿矢さんの作品の冒頭には、いつも読者を一気に作品世界に連れ込む魅力に溢れた一文が存在しますが、この作品の冒頭も強力です。そして、この作品が凄いと思ったのはこの一文から始まる独白のような表現が止めどなく溢れる思いのように複数ページに渡って続いていくことです。それは、『とどきそうにない遠くのお星さまに向かって手を伸ばす、このよくばりな人間の性が人類を進化させてきたのなら、やはり人である以上、生きている間はつねに欲しがるべきなのかもしれません』と自らの『手を伸ばす』という行為の延長に『人類』の進化を重ね合わせるという大きな世界観を表現したと思ったら、『でも疲れたな。まず首が疲れた。だってずっと上向いてるし』という単に自らが疲れたことの感情の吐露だったりと全く目が離せません。そして、その表現の極端な振れ幅もあって、これを事情も知らず受け止めなければならない読者には、いきなり何かを背負わさせるような何とも言えない感情が襲ってきます。綿矢さんの文章は句読点が少ないという特徴を持っています。慣れないと読む途中で”息を注ぐ”タイミングが掴めず、ちょっとしたストレスを感じてしまいます。この冒頭はそういう意味でも、これだけで結構な重量感を感じさせる始まりです。そして、そんな独白のような冒頭の表現がようやく終わったと思ったら、次に登場するのは『両隣のトイレの個室は女性社員が入っては出て行き回転率が高い』と始まる本編です。この展開のあまりの落差には、くらくらと目まいさえしそうな気分になりました。いずれにしても、受けた衝撃があまりに大きかったこともあり、この冒頭だけすぐに続けて読み返してしまいました。そんな二度目の冒頭は、独白とは言え一本筋が通っているというか、『とどきませんか、とどきません』という表現の狂おしい感情が二回目にはスッと入ってきた結果、その後の読書に、より感情が入っていくことに繋がりました。この冒頭、是非続けての読み返しをお勧めします。一回だけだとしっくりこない冒頭ですが、その二回目は綿矢さんの世界観がストンと入ってくるのを感じます。一回だけだともったいない、読者を酔わせてくれる世界観がそこにある、そう感じました。

そんな冒頭から始まるこの作品では、主人公の良香が気にする二人の男性のことが執拗に描かれていきます。一人は『中学以来会っていない、たった三度しか話したことのない初恋の人に十年以上片思い』という『イチ』。良香はそんな『イチ』のことを『イチ彼は私の最愛だけれどとうてい添いとげられそうになく彼がおびえがちに微笑むのを私が見ていたいだけの関係』と語ります。これだけの文章に、読点なしで一気に繋げてしまう読みづらい文章ですが、言いたいことは伝わってきます。そして、もう一人の彼は会社の同僚の『二人』。良香はそんな『二』のことを『二彼は私が彼をまったく愛していないにもかかわらず、私が将来結婚するかもしれない相手だ』と全く対象的な存在として位置付けていることがわかります。この位置づけの異なる二人をひたすらに比べては悶々とする良香。色んな側面から二人を見比べますが、においを元に表現した箇所が絶妙だと思いました。『子どものころ、いつも抱いて眠っていたきりんのぬいぐるみのにおいがした』という『イチ』のにおい。それに対して『スープ系の体臭、飛行機で出される油の浮いたコンソメスープと同じにおいがする』という『二』のにおい。『二』の表現が、いくらなんでもと気の毒にさえ感じてしまいます。そして、このにおいの表現だけでさえ『二』を選ぶという選択肢がそもそもあるのか?と疑問にさえ感じますが、そこに綿矢さんは『イチ』のにおいにこんな表現を付け加えます。『二のにおいよりもよっぽど好きで、深く吸いこむと遺伝子のレベルで落ち着く』という『イチ』のそのにおい。『でも少しさびしくなるにおいでもあった。私たちの間に少し空いたまま、埋まらない隙間みたいに』。このあたりの微妙な表現から、簡単には答えを出せない良香の心の内、そして、あなたならどうする?という読者への問いかけを感じさせる部分です。そんな二人の様々な場面からの比較、同じようなシチュエーションでの二人の対象的な反応の違い、そして冷静に相手の心の内を読み解いていこうとする主人公・良香。そんな良香の身悶えるような心の呻きが、読者の心をも引き摺り込む悶々とした展開が全面に渡って繰り広げられていく物語。分量としては中編ですが、まるで長編を読んだかのようなすざまじいまでの感情の揺れ動きを経た後の結末に、ある意味、良香に対して読者である私が『勝手にふるえてろ』と言いたくもなりました。そう、それだけ読者の心に強く訴えかけてくるのがこの作品だと思いました。

二人の男性の間で揺れ動く女性の微妙な感情の動きを執拗に描いていく綿矢さん。初恋の人と結婚に至る確率は1%程度という現実は、”わずか1%”と感じる一方で”1%もあるのか”とも取れる数字だとも言えます。そんな『初恋の人をいまだに想っている自分が好きだった』と感情を昂ぶらせる主人公・良香が『自分の直感だけを信じず、相手の直感を信じるのも大切かもしれない』という冷静な感情を身につけて、ひとつづつ大人になっていく物語。

”綿矢さんワールド”全開なその物語に、綿矢さんの作品を読む喜びを再認識させてくれた、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 綿矢りささん
感想投稿日 : 2020年11月7日
読了日 : 2020年10月6日
本棚登録日 : 2020年11月7日

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