永い言い訳 (文春文庫 に 20-2)

著者 :
  • 文藝春秋 (2016年8月4日発売)
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あなたは、愛する人を不慮の事故で突然亡くした人のその後に、どんな人生を思い浮かべるでしょうか?

この世には思いがけず命を落とす不慮の事故が後を絶ちません。ツアーバスによる痛ましい事故など記憶に残る事故も思い浮かびます。そして、事故で不幸にも亡くなった人の多くに家族がいたはずです。そんな家族の視点から見れば、行ってきますと元気に見送った瞬間、それがまさかの最後の時間になってしまうとはよもや思わなかったはずです。

予期せずいなくなった家族を思う感情の一方で、そんな家族がいなくなった後も日常を生きていく家族たち。報道で事故により亡くなった人たちの存在は意識しても、私たちは残された家族の存在までは見えません。そんな家族たちはその後何を思い生きていくのでしょうか?

さてここに、『妻を突然事故で失った作家』のその後の人生を描いた物語があります。売れない時代を支えてくれた妻の存在。この作品はそんな作家が同じ様に妻を亡くした男性と知り合う様を見る物語。そんな出会いの先に作家の感情に変化が生じていくのを見る物語。そしてそれは、あなたが「永い言い訳」という書名の意味を深く噛み締めることになる物語です。

『だいたい名前を言えば、人に一発で覚えられるだろ』、『だからそれが嫌なんだよ』と父親に自身の名前が不服であることを言い続けるのは主人公の衣笠幸夫(きぬがさ さちお)。『広島東洋カープの衣笠祥雄選手』と同じ名前であることをマイナス感情に思う幸夫はやがて作家となり『「津村啓」というペンネームを持』つことになります。そんな幸夫は『大学四年生になった』時、『就職活動の会社面接が一つ終わった帰り道、伸びすぎた髪を切ろうと通りがかりの美容室に飛び込』みました。そして、『首にケープを巻かれた時に』担当してくれた美容師が、大学の『同じクラス』だったものの後期に入って辞めてしまった同期生だと気づきます。『衣笠君と』呼ぶ彼女は『ずっと憧れてたのよ。子供の頃から人の頭をいじるのが好きで』と語りますが、幸夫は彼女の名前がどうしても思い出せません。結局、『平謝りで名前を尋ねると、彼女は笑い、夏子だよ。田中夏子です』と答えてくれました。そんな再会の先に結婚した二人。その後、出版社に就職した幸夫でしたが、『入社当初から文芸の担当に希望を出』すも叶わず、『週刊誌の女性グラビアページを担当』する中に『書くなら今だ』と退職し『退路を断』ちました。『賛成。でないとあなた、書く前に作家ってものが嫌いになっちゃうと思う』言ってくれた夏子が『自分の美容室を出すつもりで蓄財もしてきた』ことを背景に生活を支えてくれます。とは言え『書いても書いても、何の賞にも引っかからず…』という日々を送る幸夫でしたが、ようやく『作品が少しずつ人々の目に留まり始め』ます。そして、夏子が『家計を支える必要はなくなり、四年前にはついに自分の美容室も開』くことができました。しかし、『安堵という感情と引き換えに、私は私の生きている意味を、すっかり見失っ』てしまった夏子。
場面は変わり、『毎年恒例にしてきた』『二人旅』で、ゆきちゃんとの待ち合わせ時間を気にする夏子。そんな夏子は、『リビングのテレビ』に映る幸夫の姿を見ます。そんな時『ついこないだ収録したのに、ずいぶんオンエア早いんだな』と帰宅した幸夫が部屋に入ってきました。『髪の毛どうするつもりなの』、『明後日パーティだから切らなきゃって言ってたよね』と訊く夏子は『三十分後には出る』と告げ、幸夫の髪の毛を切り始めました。『一体いつから、こんなに気詰まりな関係になったんだろう…さりげない会話の糸口が一つも見つからない』と思う夏子は、カットの後、『後片付けは、お願いね』と言い残すと家を後にしますが『それが、衣笠幸夫と衣笠夏子の、別れの挨拶となった』という瞬間になってしまいます。
視点が変わり、『やっぱり不憫なもんよ。お前が言うか、と言われるだろうけど。だって売れない時代、十年近く、文句も言わずに旦那のこと食わせてきた挙げ句、こんな小娘に寝盗られちゃうってさ。哀れだよ』と思うのは『愛人』の『私』。そんな『私』が、チャンネルを変えると、『山形県の、なんちゃら村のなんちゃら峠で、スキーツアーの観光客を乗せたバスが下りのカーブを曲がり切れずに…』とニュース報道が流れます。『あーあーあ。と、先生と二人、声を揃え』て見る『私』は留守電が録音されるのを聞きます。『お尋ねしたいことがございますので、メッセージをお聴きになりましたら、おかけ直し頂けますか』という声は『山形県警のひとから』でした。
再び視点は変わり、『戸沢村温泉ホテル支配人の浜口と申します…』という留守番メッセージを聞くのは大宮陽一。『チェックインされているお客様の中に、オオミヤ・ユキ様のお名前はございませんでした』というメッセージに衝撃を受ける陽一は息子の真平、娘の灯とともに事故現場へと向かいます。
幸夫と陽一、ともに事故で妻を亡くした二人が繋がりを持ちながらそれからの日々を生きていく姿が描かれていきます。

2016年本屋大賞で第4位にランクインしたこの作品。そんな作品は、”長年連れ添った妻・夏子を突然のバス事故で失った、人気作家の津村啓。悲しさを’演じる’ことしかできなかった津村は、同じ事故で母親を失った一家と出会い、はじめて夏子と向き合い始めるが…。突然家族を失った者たちは、どのように人生を取り戻すのか。人間の関係の幸福と不確かさを描いた感動の物語”と内容紹介にうたわれています。映画監督であり、脚本家でもあるという作者の西川美和さんが描かれたこの作品は同年に本木雅弘さん、深津絵里さんらが主演で映画化もされています。

私は今回初めて西川さんが執筆された作品を読みましたが映像のプロでもいらっしゃる西川さんならではの文字表現にまず着目しました。それが一番感じられたのが、事故で亡くなった夏子の遺影を描写したこんな表現です。

 『数年前に美容業界の専門誌の取材を受けた時、プロのカメラマンに撮ってもらったもので、髪型も化粧も、普段に増してきちんと整えられ、ごく浅い被写界深度のフォーカスは、澄んだ瞳とまっすぐな鼻筋にのみにぴったりと合って、まるで映画の一場面から切り抜いてきたようだと思った』。

『映画の一場面』というからには元の『映画』のイメージがあるはずであり、それは西川さんが普段から撮り慣れていらっしゃるものなのだと思います。また、そんな遺影を抱える幸夫が挨拶から車に乗り込むまでの表現には、映像が浮かび上がってくるかのような表現もなされていきます。

 『ぼく自身が途中で声を詰まらせると、今だとばかりに報道のカメラのシャッター音が蟬時雨のように連なった』。
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 『遺骨を抱えて用意された車に乗り込むまでの間もシャッターは鳴り止まず』
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 『中には直接マイクを向けて質問を投げかけてくる記者もいたが、軽く会釈を返すのみでぼくらは伏し目がちにその間をすり抜け、葬儀場を後にした』。
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 『動き出した車の後部座席からふとルームミラーを覗いて自分の顔を見ると、朝自分でセットした前髪が妙な分け目に割れて犬のちんこみたいに額に垂れ下がっていた』。
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 『ぼくは小さくため息をついた』。

いかがでしょうか。ほんの一部分の抜き出しにも関わらずそこには映像が浮かび上がってきます。この作品はそのまま映画の原作でもあり文字から映像が出来上がっていく途上を見るようにも感じました。また、映像に繋がるのではなくあくまで文字の表現として魅せてくれる箇所も多々あります。巧みな比喩表現を三つご紹介します。

 ・『夏子は、不発弾のように埋まっている幸夫の才能に期待を寄せてくれる唯一の他人だった』。

 ・『幸夫くんは、寄せては来る波に怖じ気づくことなく、がむしゃらに迎え撃った。思ったより意気地があり、思ったより器用で、思ったより波に乗るのがうまかった』。

 ・『大きすぎる喪失に打ちのめされた人々はどこか川を隔てた向こうの住人のようで、よもや自分がその川を渡って対岸に行くようには思えなかったのである』。

『不発弾』、『波』、そして『川』という三つの例えはなかなかに絶妙です。読んでいて心地の良い比喩表現の数々。映像視点だけでない魅力がこの作品にはあると思いました。

一方で、この作品は、理解が難しいと感じさせる表現に全体が覆われているように思います。正直なところそれが何であるのかになかなか気づけなかったのですが、柴田元幸さんによる〈解説〉の次の一文が鮮やかに解き明かしてくださいました。

 “物語は複数の視点が入れ替わり立ち替わり現われる形で語られる”、”複数の語りがパズルのピースのようにピタッと合わさって最後は全体像がきれいに出来上がる、ということでもない”

この作品では、章と言ってよいのかはわかりませんが、小見出しが二十ヶ所以上に付けられています。『妻』、『愛人』、『ぼく』、『奉公娘』、『編集者』…といったものとアイコンのようなイラストで区切られるものがあります。この小見出しによって視点が交代するのは分かるのですが、その切り替えがあまりに多いのと、今ひとつぼんやりとした切り替えにも思われる部分もあり、全体像が少々掴みづらいと感じました。

そんなこの作品は衣笠幸夫(ペンネーム: 津村啓)と、大宮陽一という二人の男性が、同じバスの事故によって一夜にして妻を失うという共通点をキーに展開していきます。二人のうち、より比重が置かれるのは作家でもある幸夫です。作家でもある幸夫は、駆け出しの作家として売れない時代を、美容師として働く妻の夏子に支えられながら生きてきました。それが、作家として芽が出始めたことで二人の生活は一変します。『安堵という感情と引き換えに、私は私の生きている意味を、すっかり見失った』という夏子の一方で、夫の幸夫は妻の留守に愛人を自宅に招き入れるなど二人の心が冷えてしまった様が描かれていきます。幸夫にとってはそんな中での妻の急死という構図になります。一方で陽一は、息子の真平が私立中学受験に邁進する一方で、娘の灯はまだまだ手がかかる中、『中距離から長距離の輸送の仕事』を続け、妻の急死という状況に追い込まれました。物語では、そんな陽一の家庭に独り身の幸夫が手を差し伸べていく様子が描かれていきます。そんな中に幸夫に大きな変化が訪れます。

 『一体何だろうか。この突発的に現れた庇護欲と使命感と、そして充足感は。父性を飛び越して、母性に走ったか』。

物語は作家でもある幸夫の新たな一面も描かれていきます。微笑ましいとさえ思う幸夫の変わりようが描かれていく場面はもしかするとこの作品の一番の読みどころかもしれません。

 『色々やって分かったけど、育児の大変さに比べれば、仕事なんてたかが知れてると思ったね。とにかく彼らは生きてるんだもん』

そんな風に語る幸夫の変化には読者も驚愕させられます。そして、そんな幸夫は妻に対する思い、亡くしたからこそ初めて気づくことのできる感情の存在に気づいてもいきます。

 『自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。みくびったり、おとしめたりしちゃいけない。そうしないと、ぼくみたいになる。ぼくみたいに、愛していいひとが、誰も居ない人生になる』

”予期せず家族を失った者たちは、どのように人生を取り戻すのか ー”。まさかのバス事故により妻を失った二人の男性の心の動きを描いていくこの作品。そこには、喪失から再生へと至る人の思いのあり様が描かれていたのだと思いました。

 『それが、衣笠幸夫と衣笠夏子の、別れの挨拶となった』

全く予期せぬ中に、妻との突然の別れを経験することになった二人の男性のそれからが描かれたこの作品。そこには、同じく妻を亡くしたといってもそれまでの前提が全く異なる二人の物語が描かれていました。映像が見えるかのような表現に魅せられるこの作品。視点の切り替えに少し戸惑うこの作品。

『長い』ではなく、「永い言い訳」と付けられた書名に、人の届かぬ思いを強く感じる、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 西川美和さん
感想投稿日 : 2024年2月24日
読了日 : 2023年10月14日
本棚登録日 : 2024年2月24日

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