たゆたえども沈まず

著者 :
  • 幻冬舎 (2017年10月25日発売)
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父が亡くなった際、告別式には家族の誰も知らない人も弔問に訪れてくださいました。その時に改めて思ったこと。それは、残されたアドレス帳に名前がある人だけが父の交友関係の全てであったはずがないという事実でした。それは、自分に置き換えればすぐにわかることでもあります。その人の交友関係はその人にしかわからないものです。アドレス帳にも、記録にも何も残っていないからといって、ある人と交友関係が全くなかったと言い切ることはできません。同じ時代に同じ街で生きていたという事実がある限り、もしかしたら存在したかもしれない交友関係。それが歴史上の有名人物だったとしたら、史実で謎とされていたことが、まさかの交友関係の存在で補填されることになるかもしれない。歴史に『もしも』はないのかもしれませんが、小説はそんな『もしも』を叶えてくれる力を持っています。

『やっぱり、笑われるのか。東洋人というだけで。 男は、小さくため息をついた』。1886年のパリの石畳を歩くのは日本から到着したばかりの加納重吉。そんな重吉を迎えた林忠正。二人は東京大学の前身である東京開成学校の先輩後輩の間柄。当時『パリで大人気の日本美術。良質な日本美術を扱っている「若井・林商会」。社長であるおれと、最近日本から到着したばかりの専務であるお前』と二人のパリでの画廊経営は順調に起動に乗っていきます。そんな重吉の前に『失礼ですが、ムッシュウ、あなたは、日本人ですか?テオドルス・ファン・ゴッホと言います。以後、お見知りおきを』と現れたテオはパリ随一の画廊『グーピル商会』の支配人を務めています。『六人きょうだいの三番目であった。特に四歳上の兄、フィンセントは、悲しみも喜びもすべてを分かち合える親友同士のような存在だった』というテオ。『兄が絵に対する鋭い感性を持っていることに早い段階から気づいていた』という彼は『二十八歳でとうとう画家になる決心をした兄を、このさき何があっても支えよう、と決意を固めた』のでした。1874年に『第一回印象派展』が催されたパリ。『まるで、光の洪水のようだ』という印象派の隆盛、そしてパリ万博で勢いづく日本美術。テオは兄の絵画をこれらに続く第三の窓として、いつの日か必ず光を見るはずと信じて、忠正や重吉との交流を背景に全力で支えていきます。

フィンセント・ファン・ゴッホという美術史上燦然と輝く巨人が弟のテオと共に登場するこの作品。全編に渡って兄弟の関係が丁寧に描かれていきますが、何と言ってもゴッホは画家です。その画家としてのゴッホが絵筆を握る場面の描写には息を飲みました。『鮮やかな青、緑、黄色 ー 色彩の奔流がどっと押し寄せてきた。部屋中に絵の具を飛び散らせ、カンヴァスを平積みにし、絵筆やパレットナイフを転がして、その真ん中にフィンセントが陣取っていた。一心不乱に、描いていた。殴りつけるように、泳ぐように、踊るように ー 絵筆をカンヴァスにぶつけていた』という重吉がゴッホのアトリエに入った時の光景を描写する記述の生々しさ。あの独特なうねるような筆致による絵がまさに描かれていく光景が目に浮かびます。そして、さらに興奮したのは、『「やあ、テオ。よく来てくれたね、君の兄さんがお待ちかねだよ」男はこの店の店主、ジュリアン・タンギーだった』というシーンです。あまりに有名なゴッホの代表作の一つ『タンギー爺さん』。そのタンギー爺さんご本人のまさかの登場、絵の中にずっと静止していた人物が動いて会話をしているというまさかの光景に、ゴッホ登場の時よりさらに興奮してしまいました。

林忠正、加納重吉、フィンセント、テオという4人の登場人物の中で加納重吉のみ架空の存在というこの作品。また、美術商として史実に名前を残した林忠正とフィンセント、テオ兄弟の間に接点があったという記録はなく、あくまでこの作品は『史実をもとにしたフィクション』という設定です。でも、そこに登場するゴッホが描いた数々の有名な絵画、ゴーギャンやガシェ医師など交流のあった人物、そして印象派の隆盛と『ジャポニスム』旋風などは紛れもない史実です。この架空と史実の見事な融合によって、専門家ならいざ知らず、一般人にはもうどこまでが本当でどこからが架空世界の物語かなんて区別のしようもありません。また、たとえ記録が残っていなかったとしても、交友関係の真実は本人のみ知るところです。そういったことを踏まえてこの作品を見た時、この作品のあまりにリアルな説得力のあるストーリー展開にただただ魅了され、その世界に楽しく酔わせていただきました。そして、原田さんの時空を超えたストーリーの巧みな紡ぎによって、ゴッホが確かに生きたあの時代のパリの活き活きとした人々の暮らしを垣間見ることもできました。

絵画に興味のなかった人が絵画に興味を抱くようになる。絵画が好きな人はその絵画に見えていなかったものが見えるようになる。『いつも名画が生まれる瞬間に立ち会いたい一心で、私は小説を書いています』とおっしゃる原田さん。そのアート作品の傑作にすっかり魅せられた、そんな素晴らしい作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 原田マハさん
感想投稿日 : 2020年4月30日
読了日 : 2020年4月29日
本棚登録日 : 2020年4月30日

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