あなたのご希望の条件は

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  • 祥伝社 (2020年9月10日発売)
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あなたは、転職を考えたことがありますか?
転職をしたいと思いますか?

2019年の総務省の統計によると、この国では一年間に351万人もの人たちが転職をしているようです。この国では憲法第27条第1項によって勤労の義務が定められている一方で、同第22条第1項において職業選択の自由が保障されています。長いようで短い人生、その人生の中で大きな比重を占める”働く”ということに、自分が満足できる、自分が納得のできる職業を選びたいと思うのは当然です。しかし、外から見えている部分だけではなかなかにその職業の内側を伺い知ることはできません。仕事を選んでいくということもなかなかに難しいものです。

『明治時代に創業されたという老舗企業』、『友達にもうらやましがられたし、親も喜んでくれた』と極めて前向きに就職したその先に、『実際に入ってみたら、思ってたのと全然違って』いたという結果論が待っていることだって十二分にあり得ます。美味しそうだと思って入ったラーメン屋に全員が満足できるわけではなく、乗り心地が良さそうだと買った自動車に全員が満足するわけでもなく、そして苦労をして買った素晴らしいはずの家だって必ずしも全員が満足なんてできやしません。そんな時、自分が本当に満足できるものを求めて次の一歩を踏み出すことは何事であってもあり得ます。

そう、それは仕事だって同じことです。上記の通りこの国では一年間に351万人もの人たちが新たなステージに一歩を踏み出している現実があります。『転職』という言葉の先に輝く未来を信じて動き出す人たち。

この作品は、そんな輝く未来を夢見て『転職』の相談に訪れる人たちを見る物語。そんな『転職』を考える人たちの『転職』理由に、人々のさまざまな思いを見る物語。そして、それはそんな『転職』相談の日々の中で自身の生き方を見つめていく一人の『キャリアアドバイザー』の物語です。

『第一印象は七秒で決まる』と『社会人になりたての頃、上司にそう言われたこと』を思い出すのは主人公の千葉香澄(ちば かすみ)。そんな香澄はこの仕事では『自分自身の第一印象ばかりではな』く、『相手の第一印象をしっかりと心に刻みこんでおく』ことも大切と思いつつ『お待たせしました』と、部屋に入ります。そして、『普通』という印象を『一ノ瀬慎』に対して抱きました。『二十九歳、埼玉県出身、都内の中堅私立大学の工学部卒』という一ノ瀬は、『中堅のシステム会社に入り、この春には八年目を迎える』というシステムエンジニアでした。『今回担当させていただくことになりました、キャリアアドバイザーの千葉香澄と申します』、『一ノ瀬さんの転職を、全力でお手伝いさせていただきます』とにこやかに挨拶する香澄。そんな香澄は『今年で創業二十五周年を迎える人材紹介会社、いわゆる転職エージェント』という『ピタキャリア』で転職活動を支援する業務に就いています。『ではまず、転職活動のきっかけを教えていただけますか?』と切り出すと『ええと、会社の先輩にすすめられて…』と、もそもそと話す一ノ瀬。既に転職したという先輩に勧められて『ピタキャリア』を選んだという来訪経緯を話す一ノ瀬。そんな先輩を担当したのは誰だろう?と思いつつ『その先輩と同じように、エンジニアとしての能力をもっと伸ばしたいとお考えになっている』のかと転職を考えた理由を聞いていく香澄。そして面接を終えた香澄は自分のデスクへと戻りました。早速、『どうでした?』『いけそうですか?』と隣席の宮崎が声をかけてきました。それに、『どうかなあ』と答えた香澄は『どうも受け身』な姿勢に感じた一ノ瀬のことを思い出し『一ノ瀬は本当に、転職したいと心から望んでいるのだろうか』と考えます。そんな時『それならそれで、いいじゃないですか』という声がして振り向くと課長の石川がいました。『そういう会員さんをやる気にさせるのも、われわれの仕事でしょう?』と続ける石川は、『会員本人の期待を超えるような転職を実現すべし』ということを信条としています。そして、『ちょっとソフィアに確認してみます』と席を立った香澄は、『ソフィア』に『面談の顚末を説明』しますが『やる気がない方に、紹介できる案件はございません』と冷ややかな回答が返ってきます。『非常に高性能の対話型AI』という『ソフィア』は、繰り返し問答の末、『人間の心理は複雑ですね』と返すのでした。そして、一日の仕事を終えた香澄は『ひろ』という馴染みの居酒屋のカウンターで一人ビールを飲みます。『あれから何年経ったのだろう』、『料理をしなくなってから、離婚してから ー もう十一年、いや十二年…』と考える香澄。『今日、四十歳になった』というそんな香澄の『キャリアアドバイザー』としての日々が描かれていきます。

「あなたのご希望の条件は」という書名のこの作品。〈一月〉から〈十二月〉という12の章にまたがって『ピタキャリア』という『転職エージェント』会社で『キャリアアドバイザー』として働く千葉香澄が主人公となって転職を希望する人たちに向き合っていく姿が描かれていきます。ちょうど一年という期間で各月を章題に描かれる物語には、ユニークな工夫がなされています。それは、月を表す漢数字が転職相談をする人物の苗字に入っているというものです。例えば〈一月〉の相談者は『一ノ瀬慎』、〈二月〉の相談者は『二宮壮太』、そして〈三月〉の相談者は『三上江利子』といった感じです。まあこのあたりは思い浮かびそうな苗字ですが、では、『九』とか『十』がつく苗字となると一瞬考えてしまいます。この作品では、なるほどそんな名前もあるね、という絶妙な落とし所で名前がつけられています。これから読まれる方は、それぞれの月を表す漢数字にどんな苗字の人物が登場するのかも楽しみにしていただければと思います。そんな苗字の工夫について、単にユニークさを狙ったのかと最初は思いましたが、読み進めるうちに、月を表す漢数字という分かりやすい命名になっている理由が掴めてきます。それは、各章で活動する人物たちの転職が決してその章内で決着しないということに関係します。各月を表す漢数字がついた人物たちはそれぞれの章で頭出しとして登場します。例えば〈二月〉の章に登場する二宮壮太は『新卒入社で六年間勤めた住宅メーカーを年末に辞め』てから転職活動に入りました。『現在の職場に勤めながら転職活動を進める』ことを推奨している『ピタキャリア』ですが、二宮の場合は『とにかく、ノルマが厳しくて』と営業マンとしての厳しい日々の中で仲の良かった同期が倒れたことで『急にこわくなって』退職をしました。『営業だけは、ほんとに勘弁して下さい』と転職希望を訴える二宮。一方で話を聞けば聞くほどに二宮が『優秀な営業マン』であることを見抜いた香澄は、『営業職を選択肢からはずすのは惜しい』と考え説得も試みます。そんな様が描かれる〈二月〉の章は相談主の二宮に光が当たる物語です。しかし、一方でその同じ章内には〈一月〉の章で光が当たった一ノ瀬慎について、『先月から受け持った一ノ瀬慎の案件が、うまく進んでいないのだ』と語られます。そして、〈二月〉の章で光の当たった二宮についても、〈三月〉の章で『二宮が応募した十社のうち、面接に進めたのは半分にあたる五社で…』とその転職の進捗具合が記されます。…というように各章で転職相談に訪れる人物の転職活動の進捗がその後の章にさまざまな形で現れながら展開していくという非常に凝った作りになっているのがこの作品の特徴です。しかし、これは言ってみれば当たり前のことです。あなたの仕事を考えてみてください。一つの案件だけに取り掛かって、終えて、また次の案件に取り掛かって…と常に一つの案件だけに向き合う仕事なんてありえないはずです。複数の案件がそれぞれの進捗バラバラに並行してあなたの前に存在する、そのそれぞれに気を配りながら全てに目を配りながら業務を進めていく、それが仕事というものだと思います。この作品では、各章で登場する転職希望者に光が当たりますが、主人公は『キャリアアドバイザー』の香澄です。つまり、この作品はそんな香澄が中心となる”お仕事小説”なのです。しかし、読者は香澄と違って転職希望者の面々の顔を見るわけでも直接話をするわけでもありません。同時並行的に登場する転職希望者たちの現在進行形の転職活動を頭に思い浮かべながら読み進めるのは少しハードです。そう、そんな読者の理解を助けるのが各章で登場する主人公たちの名前の工夫です。これによって、後の章に名前が登場しても、あの〈二月〉の章の彼…という感じで頭の整理がスムーズに追いつく読書が可能となります。これから読まれる方にはこの瀧羽さんの一工夫を利用して、まるであなたが『キャリアアドバイザー』になったかのように、転職希望者たちの転職活動の推移を把握しながら、まるで仕事をしているかのような感覚で読んでいくと、なかなかに興味深い読書が楽しめると思います。

さて、あなたは、転職を考えたことがありますか?転職をしたいと思いますか?

昨今、終身雇用が崩壊してきているとはいえ、諸外国と比べればこの国では転職はまだまだメジャーとは言えないと思います。それぞれに不満を抱えながらも毎日を勤め上げている、それが多くの人たちの日常だと思います。しかし、そんな不満から脱するために一歩を踏み出す人たちが頼る先の一つ、それが『転職エージェント』です。この作品で相談に訪れた人たちの転職理由は多岐にわたります。『明治時代に創業されたという老舗企業』の『メグローザ』という『化粧品会社』に『やる気満々で入社』したものの希望した『マーケティングか広報』に就けず、『第二新卒』として転職を考える者。『国内有数の化学メーカーである中野化成』に勤めるものの『夫が転勤の打診を受け』、転職に際しての『最も大事な条件は、勤務地だ』と、『福岡市の近くで、研究職の仕事ってありますか?』と転職を考える者などそれぞれにそれぞれの理由を抱えています。そのようなそれぞれの転職理由を読んでいくと、読者の気持ちもその人物に感情移入していきます。しかし、それにしてはそれぞれの相談者の扱いは軽く、決して気持ちが深く入っていくには至りません。この辺り読んでいて少し物足りない印象も受けます。しかし、この作品はそうではないのです。数多の小説の中で複数の章の中で光が当たる人物が移り変わっていく作品は多々ありますが、この作品は上記もした通り、『キャリアアドバイザー』の香澄が主人公となる”お仕事小説”です。それぞれの章に転職希望者が登場しようともあくまで主役は香澄であって、それは全編に渡って変わりません。そんな香澄は、さまざまな人が働く現状に悩み、憂いている姿を垣間見、新たな一歩を求めて彷徨うのを手助けする立場です。そして、彼らにその先の道をアドバイスしていく身でもあります。しかし、そんな香澄も別の視点から見ると一人の人間です。当然に自らの人生に思い悩む姿というものが存在します。『昔から、どういうわけか、他人に悩みを打ち明けられる機会が多い』という香澄。

『多くの人々は、縁あって就いた職業をそれなりに気に入り、もしくは折りあいをつけて、日々こつこつと働いている』。

『ままならない現実から目をそむけ、ここじゃないどこかへ逃げ出すだけでは、根本的な解決にはならない』。

『どうか、ご自分のキャリアを大切にして下さい』。

自らの仕事に邁進すればするほどにさまざまな言葉が頭に浮かび、人の人生を支えていくことに意義を見出す一方で、そんな風にみんなが『先へ先へと軽やかに走っていくのに、ひとりだけ同じ場所で漫然と足踏みしている』という自分自信を見つめていく香澄。そんな香澄が『わたしを必要としてくれているのは…』ということに気づいていく結末は清々しさに満ち溢れた、”お仕事小説”らしい爽やかさを感じさせるものでした。

『一ノ瀬さんの転職を、全力でお手伝いさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします』。転職希望者に、にこやかに語りかける『キャリアアドバイザー』の香澄の活躍を描くこの作品。そこには、『どうしたいのか、彼自身もまだわかってないのかもしれない』と、転職を、そしてその先に続く自分の人生のあり方に悩む多くの人たちの姿を見ることができました。会社という組織の中で働く中では、全てが自分の思い通りになるわけではありません。長いようで短い人生、そんな会社の中で『人生が停滞してる』と感じるようであれば、そしてそのことに思い悩むのであれば必ずしも現在の職場に縛られる必要などないのだと思います。しかし、『ここじゃないどこかへ逃げ出す』という安易な考え方では必ずしも解決方法になるわけではありません。この作品では、それぞれの人生に思い悩む人々の姿と、そんな人々を支えながらも自らの人生にも思い悩む主人公の香澄の姿を見ることが出来ました。

『キャリアアドバイザー』の”お仕事”に光を当てるこの作品。読後、自分自身の今までを、自分自身の今を、そして自分自身のこれからを、ふと考えてしまった、そんな作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 瀧羽麻子さん
感想投稿日 : 2022年3月7日
読了日 : 2021年12月19日
本棚登録日 : 2022年3月7日

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