あひる

著者 :
  • 書肆侃侃房 (2016年11月18日発売)
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感想 : 222
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なんだろう、なんなんだろう、これは?
なんて言えばいいんだろう、なんと言いあらわせばいいんだろう、これは?

とても不思議な読書でした。読んでいる時も、読み終わった後も。まるで、児童文学を読んでいるように感じる一方で、まるで、とっても難しい文学作品を読んでいるようにも感じる、そんなとても不思議な読書。『今村夏子の文章は平易で、曖昧なところはどこにもない』と解説の西崎さんが語る通り、一見とても分かりやすく、とても丁寧に綴られる物語。でも、何かが違う。何かが変だ。そして、何かがざわつくこの作品。ただの日常のようであって、ただの日常なんかじゃない。ホラーのようであって、ホラーなんかじゃない。とっても不思議な立ち位置にさりげなくすっと立つこの作品。それは、何もないようで何か引っかかりを感じる、そんな不思議世界の物語でした。

三つの短編からなるこの作品。文庫で180ページしかないこと、そしてとても淡々とした文章が連続することもあって、一見さくっと読めるようにも感じるこの作品。途中でやたらと引っかかる箇所が多く、その前後を読み返すという繰り返しの読書は、思った以上に時間がかかってしまいました。そんな三つの短編の中では、書名にもなっている〈あひる〉が強く印象に残りました。

『あひるを飼い始めてから子供がうちによく遊びにくるようになった』という不思議な書き出しから始まる冒頭。『あひるの名前はのりたまといって、前に飼っていた人が付けた』のでその由来は知らないという主人公の『わたし』。あひるを飼い始めたことでお客さんが来るようになったという『わたし』の家。『のりたまが初めてうちにやってきたその日の午後』のこと。『あひるだ』『かわいい』という声を聞く『わたし』。『次の日も、またその次の日にもお客さんは来た』と『のりたまに会いにくる子供はあとを絶たなかった』という日々。『わたしは終日二階の部屋にこもって、医療系の資格を取るための勉強を』する毎日。『弟が家を出て行ってから、長らくしんとしていた我が家が突然にぎやかになった』とお客さんが来るようになったことを喜ぶ父と母。そんな『母は、毎朝、三十分、神棚の前から離れなかった』と、弟夫婦の『子授けに関するもの』、『わたしに関する内容』、『父に関する内容』を『お祈り』します。そこに『のりたまに関する内容』が加わります。それは『のりたまの食欲が、徐々に落ち始めていた』という心配事。やがて『母もわたしも、初めはのんきにしていた父も、それぞれのやり方でお祈りを』します。しかし、『のりたまは日増しに衰弱していった』という現実。そんなある日、『一番乗りでうちへ来た男の子が『のりたまっ』と叫びます。『のりたまがいない、いなくなってる』とあひる小屋を指差す男の子。『さっきおとうさんが、病院に連れていったのよ』と落ち着いた調子で話す母。『のりたま』がいなくなって『お客さんはパッタリ途絶えた』という『わたし』の家。そして二週間後、『見慣れない一台の黒のワゴン車が我が家の敷地に入って』来るのに気づいた『わたし』。作業着の男が中からゲージを降ろします。『のりたまが帰ってきた!』と階段を駆け下りる『わたし』。『おかえりのりたま』と声をかける『わたし』は、『こんなに小さかったっけ』と目の前の『あひる』を見て思います。そして『ほかにも気になるところが見つかった』と、『羽根の色』、『くちばし』と目の前のものに違和感を感じます。『これはのりたまじゃない』と気づく『わたし』。『どうしたの?』と声を揃える父と母。でも『のりたまじゃない、本物ののりたまはどこ行った?』と思うだけで『何も聞けなかった』という『わたし』。結局『べつにどうもしない』と答えた『わたし』。そんな『違和感』のある『のりたま』は、やがてまた元気をなくしていきます。そして…。

とても平易な文体が一貫しているこの作品は、解説の西崎さんが書かれる通り『平易で、曖昧なところはどこにもない』という印象そのもので、とてもとっつきやすくて、とても読みやすいという第一印象を受けます。しかし、実際には読めば読むほどに何かしらの違和感に苛まれていくのを感じます。それは、『のりたま』の前の飼い主の名前が『新井さん』と出てくるだけで、主人公である『わたし』を含め、父も母も登場人物の名前が出てこないというところも原因だと思います。そして、そんな『わたし』の家族についても、例えば食事の際の会話は『宗教関係のことを母が父にぼそっと伝えて、父がそれに小さくうなずいておしまい』と、果たしてどんな意味があるのかよくわからない記述が出てくるだけで、おおよそ一般的な小説に見られるような、そのそれぞれがどういった人物かを説明するような記述が出てきません。主人公の『わたし』でさえ、『医療系の資格を取るための勉強』をしている、以上、といったように圧倒的な情報不足の中に読者は置かれたままの読書。この所在なさは読者にただただ不安な気持ちを抱かせます。そして『母は毎朝三十分、神棚の前から離れなかった』と、『お祈り』という日常の一部分を唐突に切り取った描写が違和感をさらに増幅します。その一方で『早朝の散歩を日課にしている』父というように、確かにそれぞれが送る日常を説明しているには違いないのですが、何とも引っかかりを感じる記述だと感じざるをえません。そして、これは解説の西崎さんも取り上げられていて、やっぱりそうだよね!そう感じるよね!ここ、と思ったのが次の記述です。
『その叫び声に驚いて、思わず勉強の手を止めて二階の窓から顔を出した』という『わたし』。『ギョッとした顔でこっちを見上げたまま動かなくなった』男の子。『どうしたの』と男の子に声をかける母。そんな三人の人物が登場するシチュエーションで次の3行が登場します。
『まっすぐにわたしの顔を指差して、
「人がいる」
と言った。娘よ、と母がこたえた。』
というこの箇所。主人公である『わたし』視点で書かれている物語に、どこかそんな主人公の『わたし』を他人事のように扱うこの表現の圧倒的な違和感は、この作品に終始漂う不穏な空気を象徴するシーンだと思いました。このように、違和感が終始付き纏う〈あひる〉は、第四の登場人物が唐突に登場して、不思議さに輪をかけるように幕を閉じます。なんだろう、なんなんだろう、これは?まさしく、そうとしか言えない短編でした。

一方で後半の二つの短編〈おばあちゃんの家〉と〈森の兄妹〉は、登場人物がそれぞれ姉と弟、兄と妹というなんだか意味のある二名の登場人物の組み合わせに、どちらも”おばあちゃん”が絡んでくる物語です。そんな〈おばあちゃんの家〉のおばあちゃんは”インキョ”と呼ばれる家に住み、『おばあちゃんが、ひとりでしゃべってるよう』という弟の台詞から認知症を疑わせます。そんなおばあちゃんを見て『胸の中がざわざわしていた』という主人公の みのり。この『ざわざわ』という表現はこの短編中、三箇所に登場しますが、そもそも、それでなくても心が”ざわざわ”する今村さんの作品の中で”ざわざわ”してしまう主人公という、なんだかとてもシュールとも言える表現のインパクトが印象に残りました。一方で対になる〈森の兄妹〉でも、やはり何かありそうな”おばあちゃん”が登場し、兄妹に絡んでいきます。というように、明らかに対になるこの二編目、三編目の組み合わせがこの順で並べて置かれているからこそ、読み終わった後の不穏感が二倍、三倍にと増幅されるのだと思います。この二編も印象としては、やはり、なんだろう、なんなんだろう、これは?という、読後感が残った作品でした。

不思議な日常が描かれる三つの短編からなるこの作品。一見なんのことはない日常が淡々と綴られるだけなのに、そこかしこに何か引っかかりを感じる、不安感に苛まれる、どこか居心地の悪い独特な感覚に包まれるこの作品。それは、本来指摘されて然るべきことが淡々とスルーされる。その一方でここに注目すべきではないかということが淡々と無視される。そして、どうでもよいこと、ただの風景の一部としか思われない微細なことが何故か大きく取り上げられていく、そこにその違和感の理由があるのかもしれない、そう思いました。

まるで、自分自身の感覚がおかしくなったのではないか、まるでこの世界は私が知っている価値観の世界ではないどこか異世界のことではないか、そんな気分に陥ってしまうこの作品。平易な文章に、引っかかりを感じながらの読書、終始とてもモヤモヤした感覚に付き纏われる読書、そんな初めての経験をさせてくれた、とても不思議な作品でした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 今村夏子さん
感想投稿日 : 2020年10月11日
読了日 : 2020年9月14日
本棚登録日 : 2020年10月11日

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