ロリータ (新潮文庫)

  • 新潮社 (2006年10月30日発売)
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感想 : 328
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何度読み返しても終わらない。実際何度読んだことだろう。読めば読むほど、まだ読み終えていないという気にさせられる。前に読んだときはここを読み飛ばしていたな、とか、こんな言葉があることに今まで気がつかなかった、などという気にさせられるのである。ナボコフはその『ヨーロッパ文学講義』の中で「読書とは再読のことである」と語っているが、読者を再読に誘い込む手ぎわにおいて、ナボコフをこえる物書きはいないのではないだろうか。

なるほど、「ナボコフにはまる」とはこういうことなのか。名うての読み巧者が、次々と餌食になるナボコフの小説。何が他の作家の書くものとちがうのか。怖いもの見たさで『ロリータ』を読み終えたときは、ふうん、これが、という感じだった。文章、特に細部を忽せにしない描写の緻密さには感心したが、ストーリー展開も自然で、むしろその分かりやすさに違和感を覚えたくらいだ。

ところが、である。いつものようにあらすじをまとめ、主題と思われるものや、主人公ハンバートの行状について何事かを述べてみても、いっこうに『ロリータ』という小説について語っているという気がしてこない。旨い魚を食べたのに、それを紹介しようと筆をとったら紙の上に現れたのは骨ばかりという具合だ。

そこで、もう一度読んでみた。訳注は再読時に読むことという「ただし書き」がついていたが、まさにその通りで、通常なら初読時の理解を助けるためにあるはずの注が、再読時のために書かれているではないか。実は、『ロリータ』については既に研究者によって詳細な解説書が出ている。訳者による注は、それと重ならないように独自に設けられたものである。訳注を頼りに何度もページを繰りながら読み進めるうちに、次から次へと気になる箇所が現れてくる。

伏線というか、ほのめかしというか、ストーリー展開上、重要と思える事件に関する情報が此処や彼処にまき散らされているのに、初めて読むときに、ほとんど読み飛ばしていたのは驚いた。話者で主人公のハンバート・ハンバートは、自身や他の登場人物について言及するときも、フランス語の慣用句を濫用するなど極度に自意識過剰で、饒舌であるばかりでなく、度々人物の呼称を替えたり、余分な注釈を加えたりと、逸脱を繰り返す。はじめての読者は、いちいちつきあっていられず、主筋に関わると思われる箇所以外は読み飛ばしてしまうからだ。

それだけではない。本来ナボコフが持つ明晰、直截、論理的な文体にまじって、ポオを下敷きにした幼年時を回想する感傷的でロマンティックな文体、雑誌や新聞の広告、観光パンフレット等様々な非小説形式のもじり、ポピュラー音楽の歌詞のパロディ、フロイト学派を揶揄するような精神分析学特有の用語を用いた論文風文体と、速度や強度の異なるありとある文体が繰り出される文体見本のような小説に読者は眩惑されてしまうのだ。

全編にばらまかれた謎や仕掛け、言葉遊びに唆されるようにして、何度も本文に立ち戻るうち、読者はそうした知的な快楽とは別に、ナボコフが周到に用意した何気ない情景が、忘れられなくなるという経験を持つ。たとえば、断崖の下、谷間の小さな村から響いてくる子どもたちの遊び声を聞きながら自分のそばにロリータがいないことではなく、その中に彼女の声が混じっていないことを悲しむハンバートの姿。

本当のドロレス(ロリータ)ではなく、自分の幻想のロリータを愛していたはずの主人公が、幻想を愛していたつもりで、いつの間にか真実のロリータ(ドロレス)を愛していたことに気づく、主題に深く関わるこの重要な場面が谷間の小さな炭坑町から響いてくる音で表象されるこの場面だけでなく、全編を通じて、ささやかな何気ない場面が鮮明で詩情に溢れ、深く印象に残る。読者はそうした細部をためつすがめつ味わうことを愉しみながら読み進めていく。

数えられないほどに分かれたパズルのピースを正しく組んでいくことで成立するのが『ロリータ』という小説なのだ。それは、他では滅多に味わえない種類の快楽を経験することである。『ロリータ』によって小説を読む愉しさを知らされた読者は、何度でも何度でも小説の中に立ち戻るだろう。もし、それを中毒と呼ぶなら、『ロリータ』には、他の凡百の小説にはない、猛烈な毒が含まれているといえるだろう。しかし、なんと甘美な毒であることか。「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ」。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ウラジーミル・ナボコフ
感想投稿日 : 2011年5月28日
読了日 : 2011年5月28日
本棚登録日 : 2011年5月28日

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