イスラム教を理解することは、キリスト教を理解することに繋がる。キリスト教を理解できれば、近代社会を理解できるようになる。
歴史的に見ると、イスラム世界の方が、キリスト世界よりも優秀である期間が長かった。というよりも、世界のなかでも、イスラム世界が最も優秀だったのだ。生活水準も知的水準も高いイスラム世界。しかし、近代化ができなかったために、今のところキリスト教世界の後塵を拝することとなっている。
キリスト教は外的規範を一切要求しない。内面的規範つまり「心構え」だけでよいのだ。だが、キリスト教によれば、人間は原罪を負った存在である。ゆえに、自ら進んで内面的規範は満足させることはできない。仮に進んで善行ができるとしたら、それは神の導きによるものである。このように考えると、内面に一切の本人自身の意志(=自由意志)がないということになる。心の動きも、「すべて」神の導きによるものである。すべては神によって予定されたものである。これが「予定説」だ。
正しきキリスト教徒ならば、正しき行いをする。「予定説」に従えばそういうことになる。当然だ。神が「正しきキリスト教徒」の所作をすべてコントロールしているのだから。
このとき、正しきキリスト教徒は、隣人愛に基づいて行動する。さらに、先述のとおり、キリスト教には外的規範がない。ということで、隣人愛を実践するための行いを、より「合理的」に行おうとするのである。それは、労働の神聖化でもある。公正な市場取引の拡大でもある。契約の絶対視でもある。
イスラム教の場合は、近代化は不可能だ、と小室博士は言う。それは、イスラム教が「宿命論的予定説」をとっているからだという。これは、現世では「天命」に従い(すべてはアッラーの思し召し)、来世では、現世での行いに応じて(因果応報)裁きが決まる、というものだ。つまり、現世(現実)の生活は、アッラーがすべて御差配なさるものであって、人間がどうにかできるものではない。合理化という発想はでてこない、ということである。
また、ムハンマドが最後の預言者であるという点も重要である。なぜならこのことは、イスラム教が絶えず「原理主義者」を生み出すことを意味しているからだ。説明すると、「最後の預言者」ののちに、神が契約を更改なさることはない。ということは、ムスリムは最後の審判が訪れるまで、イスラームに則った行いをする他ないのである。もし、イスラームから逸脱しそうになったら、正道に戻そうとする保守派が登場する。それが西欧・アメリカ的に言うと、「原理主義者」なるものなのだ。
小室博士の著作は面白い、改めてそう思った。
- 感想投稿日 : 2012年6月8日
- 読了日 : 2012年6月7日
- 本棚登録日 : 2012年6月6日
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