春宵十話 (角川ソフィア文庫)

著者 :
  • KADOKAWA/角川学芸出版 (2014年5月24日発売)
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── 岡 潔《春宵十話 20140524 角川ソフィア文庫》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4044094640
 
── 岡 潔《春宵十話 19630210 毎日新聞社》
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/B000JAJ4LC
 
…… 「算術はこれまで演繹的に教えていたのを。近ごろ帰納的に教え
なければいけないといわれているが本当でしょうか」とたずねられた。
とんでもないことで、私たちの世代は、私にしても、中谷 宇吉郎さん
や湯川 秀樹、朝永 振一郎両君らにしても、算術を帰納的になんか習い
はしなかった。その代わり、検算は十分にやらされたものである。教学
教育に関する限りは、このころまで戻るべきだと思う。
 動物性の侵入を食いとめようと思えば、情緒をきれいにするのが何よ
りも大切で、それには他のこころをよくくむように導き、いろんな美し
い話を聞かせ、なつかしさその他の情操を養い、正義や差恥のセンスを
育てる必要がある。
 そのためには、学校を建てるのならぼ、日当たりよりも、景色のよい
ことを重視するといった配慮がいる。しかし、何よりも大切なことは教
える人のこころであろう。国家が強権を発動して、子供たちに「被教育
の義務」とやらを課するのならば「作用があれば同じ強さの反作用があ
る」との力学の法則によって、同時に自動的に、父母、兄姉、祖父母な
ど保護者の方には教える人のこころを監視る自治権が発生すべきではな
いか。少なくとも主権在民と声高くいわれている以上は、法律はこれを
明文化すべきではなかろうか。
 いまの教育では個人の幸福が目標になっている。人生の目的がこれだ
から、さあそれをやれといえば、道義というかんじんなものを教えない
で手を抜いているのだから、まことに簡単にできる。いまの教育はまさ
にそれをやっている。それ以外には、犬を仕込むように、主人にきらわ
れないための行儀と、食べていくための芸を仕込んでいるというだけで
ある。しかし、個人の幸福は、つまるところは動物性の満足にほかなら
ない。生まれて六十日目ぐらいの赤ん坊ですでに「見る目」と「見える
目」の二つの目が備わるが、この「見る目」の主人公は本能である。そ
うして人は、えてしてこの本能を自分だと思い違いするのである。そこ
でこのくにでは、昔から多くの人たちが口々にこのことを戒めているの
である。私はこのくにに新しく来た人たちに聞きたい。「あなた方は、
このくにの国民の一人一人が取り去りかねて困っているこの本能に、
基本的人権とやらを与えようというのですか」と。私にはいまの教育が
心配でならないのである。(P82-83)
── 岡 潔《春宵十話 20061020 光文社文庫》目次
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4334741460
 
…… 無知と孤立の闇が消え、この帝国の誇り高い統治者も己の無力と
西洋諸国民の力を認めはじめており、今日まで、思わせぶりな女王のよ
うに世界のあらゆる縁組みの申し入れをはねつけてきたこの帝国も、よ
うやく人間の権利を尊重して、世界の国々の仲間入りをしようとしてい
るのだ。
 しかしながら、いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進
歩はほんとうに進歩なのか? この文明はほんとうにお前のための文明
なのか? この国の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美
する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの
愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができな
かった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えよう
としており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているよ
うに思われてならないのである。
── Heusken, Henry/青木 枝朗・訳《日本日記 19890717 岩波文庫》P221
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/400334491X
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040813 質樸な人々
 
(20161124)(20170115)
 

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感想投稿日 : 2016年12月27日
本棚登録日 : 2016年8月11日

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