サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)

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  • 中央公論新社 (1996年10月25日発売)
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無自覚的な心のはたらきをもとに、行動・認知・神経科学的な過程をさまざまな実験結果を引用し説明。わたしたちは自分の行動の理由を説明できるけれど、実は行動に現れる無自覚の認知過程と言語報告に現れる意識的な過程とは別物だそうだ。何度も見ることで好感が上がり、商品の購買につながること(サブリミナル・コマーシャル)や、右頭頂葉損傷の患者に絵を描かせると対象物の半分しか描けないが、それは識閾下で全体を認知しているからだという説、自分が話しているグループとは別のグループで自分の名前が呼ばれたらすぐに気づくことも無自覚的な情報処理なのだとか(カクテル・パーティ効果)。脳のはたらきはとても面白いのです。

p4
「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」

…自分で意識化し、ことばにできる心のはたらき(メンタル・プロセス)よりもむしろ、自分でも気づかない無意識的な心のはたらきに強く依存しています。

p7
人間観のひとつの極には、人間の絶対的な自由意志を一〇〇パーセント認める立場があります。この立場に立てば、人はすべて自らの意志によって行為し、当然その責任もすべて当人にあることになります。近代民主主義の根幹には、これに近い考え方があると思います。
他方、この人間観の反対側の極には、人の行為や意志はいくらあがいても環境の影響から逃れることはできず、所詮あらかじめ定められた法則にのっとってしかふるまえないのだ、とする考え方があります。人間機械論、ライプニッツの予定調和論、神の見えざる手、マクスウェルのデーモン……。

p10
私のイメージする「潜在的な認知過程」にもっとも近いのは「暗黙知」という概念です。伝統的な技能・芸能や武道などの鍛錬でしばしばいわれるように、熟達者がある種の技能をしっさにおこなって見せることはできても、その技能をことばで客観的に表現しがたいということがよくあります。また、ある事柄を知っているという自覚しに知っているという場合もあります。このような潜在的で無意識的な技能や知能(知恵)をまとめて「暗黙知」といいます。

p13
…見える限界=識閾よりも下という意味で「サブリミナル(閾下)」といいます…

…本人の自覚がないにもかかわらず、刺激が知覚や行動に明確な影響を与えている点です。そうした無自覚的な心のはたらきをまとめて、「潜在的な認知過程」と名づけておきたいと思います。

p23
個人の心の中に互いに矛盾するようなふたつの「認知」があるとき、認知的不協和と呼ばれる不快な緊張状態が起こる。そこで当然、それを解消または低減しようとする動機づけが生じる。しかし多くの場合、外的な要因による「認知」のほうは変えようがないので、結果として内的な「認知」のほうが変わる。つまり態度の変容が起こる(具体的には、たとえばものや作業に対する好嫌の感情が変化する)

p40
有名なチャールズ・ダーウィンの著書『人間と動物における情動の表出』(一八七二年)は、このうちの第二番目、つまり情動の表出に関するものですし、また情動の経験や表出と、第三番目、つまり他人の情動の認知とは、実は互いに密接な関係があることも知られています。その神経生理学的な根拠として、たとえば顔や表情を認知する神経機構が、脳内で情動に関連する領野のすぐ近くにあることが知られています。

p44
まず常識的に考えられている通り、情動経験は感覚刺激に依存します。しかしまた顔筋の変化=表情と情動経験の間には連合ー相関関係があり、この関係は表情の変化が教示や演技による場合にも変わりません。つまり感覚刺激なしに教示や演技によって表情を作った場合ですら、このような強い連合関係のために、情動の経験が想い起こされてしまいます。

ジェームズ主義では、表情を作ることがむしろ先立ち、それによって逆に主観的経験としての情動が形作られるという筋道だからです。

p45
つまりこれらの説では、身体の生理的変化が先で、次にこれが原因で情動が生じるというのです。しかし、私たちの日常的経験は、これとは逆のように思える。

時間的生起順序・因果関係を承認しにくいのはなぜかというと、これらの理論が、本人も自覚的にアクセスできない意識下の過程の存在を示唆しているからでしょう。単純化して図式的にいってしまうなら、「身体的過程→潜在的認知過程→自覚的情動経験」という関係が重要なのです。

p46
今回の講義全体を通じて私が提案しようとする「人間科学のセントラル・ドグマ」は、ある一側面からいうと次のようなことです。つまり、知覚から行動に至る無自覚的な経路がより基本的で、意識的な経験はこうした無自覚的プロセスに対する。いわば後づけの「解釈」にすぎません。

「情動による生理的喚起=興奮状態は、情動の種類(喜び、怒り、悲しみなど)にかかわらず共通である」。これが、情動二要因理論の大前提です。

p47
….情動二要因理論では、情動経験に、ついて次のような二段階のシナリオを考えます(シャクター、一九六四年)

⑴生理的な喚起(興奮)状態の認知(ただし原因は何でもよい。また後でふれるように生理的喚起そのものはなくてもいい、生理的喚起の認知があればよい)。
⑵情動ラベルづけ(喚起状態の推定、あるいは原因への帰属)

p50
…人は自分の主観的な情動の経験を「決定する」ために、⑴自分の内的状態と、⑵その状態が生じている環境とを評価する

p51
そしてTATテスト(絵画主題統覚検査)といわれる検査をおこないますが、これは挿し絵のような、具体的ですが曖昧な場面を描いた絵を見せ、その登場人物について挿話を求めるものです。被験者の深層心理を調べる「投影(映)法」といわれるものの中でも有力な方法です。この実験の場合には、特に被験者の性的興奮度を評価するために使われているのです。

p57
いうまでもなく、無意識的な過程は行動に、意識的な過程は言語行動に反映されると考えられます。

p60
怒りも喜びも悲しみも、極端な状態では生理的興奮としては類似性・一般性・曖昧性を持つものといえます。それだからこそ、この生理的興奮を異なる状況要因に「帰する」(つまり認知的に異なるラベルづけをする)過程が、情動の経験に重要な役割を果たすのです。

…感情のように一見生理学的要因に直結しているように見えるものでさえ、案外無意識的な認知過程(たとえばラベルづけ)の結果である一面が大きいといえます。特に自己認知と原因帰属の過程が寄与するのです。また、罪の意識のような社会的起源を持つ感情についても、同様のメカニズムがはたらき得ます。

…行動に顕れる無自覚の認知過程と、言語報告に現れる意識的な過程とは別物である可能性を指摘しておきましょう。別の言い方をすれば、私たちの知覚や態度や行動は、いずれも無自覚のメカニズムに支えられており、私たちが自覚的に体験し、ことばで報告できるのはその出力の部分だけ、それもほんの一部だけであるかもしれないのです。

p67
実際、時々刻々と移り変わる視野の中で、私たちがはっきりと意識している対象がごく少ないことを考えれば、このことは明らかでしょう。さらに末梢から中枢への感覚神経系の情報処理の流れ、中枢から末梢への運動神経系の流れを考えるなら、これらがすべて自覚的にモニターされ得ると考えるのは、ますます非現実的としなければなりません。
結局、私たちの神経系のなしている仕事量と実際に意識に生じているイベントとを量的に比較すれば、潜在的なメンタル・プロセス(心的過程)の存在を認めるしかないのです。

p72
ところで、言語に関連する機能は、大多数(九〇パーセント以上)の人々では左半球に集中していることが知られています。

p77
結局、右半球の高度に知的なふるまいを左半球は直接知ることはできず、絶えず推測しつつ、しかし推測しているということには気づかずに、事実として認知し記述しているらしいのです。

p89
「人は、自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」

p118
記憶にまつわるさまざまなミステリーやパラドクスは、潜在記憶、つまり「覚えている」という本人の自覚なしの記憶過程を認めることによって、はじめて解消します。

p128
宣言記憶というのがいってみれば事柄の知識で、意識的な想起が可能な記憶であり、内容について述べることができます。これは主に学習によって獲得された事実やデータに関する記憶で、健忘症では強い障害を示します。
これに対して手続記憶は、やり方の知識のようなもので、特定の事実やデータ、特定の時間に特定の場所で生じた出来事とは関係がなく、学習された技能や認知的操作の変容に関わる記憶で、健忘症でも障害されずに残ります。

p133
宣言的記憶は系統発生的には比較的新しく、また個体発生的に見ても手続的記憶が先に発達するのだろうといわれています。その証拠に生後一、二年目までのことは、誰も覚えていないでしょう。不思議だと思いませんか。これを乳児性健忘とか乳幼児期健忘などといいます、自覚できない潜在的記憶だけが先にあり、自覚でき報告できる顕在記憶が未熟ですから、後で意識的には思い出せないのだと考えられているのです。けれども思い出せない乳児期の記憶が後の人格形成に決定的な影響を与え得ることは、フロイトらの精神分析学派だけではなく、多くの論者によって指摘されています。

p169
「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能でありわれわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない」

p171
…知覚とは複数の過程の集合体であり、知覚の測定可能な出力は複数ある

p173
まず、「見えない」プライム刺激が、後の知覚情報処理に影響を与えていること。それが何通りかの「間接的な」方法で示されたこと。また知覚過程の測定可能な出力は複数あって、それぞれ異なる神経経路やメカニズムによる。したがって、それらの出力が食い違うことも珍しくないこと。さらに、そうした出力は意識レベルで「気づき」自覚できるものであったとしても、そこに至るまでの過程は自覚できない場合が多いということ。

p219
マスメディアによる、あるいはマスメディアを通したサブリミナルな操作、という問題が、きわめて微妙で重要な問題をはらんでいると思うのは、ふたつの異なるケースがあり得るからです。その第一は、発言者あるいは製作者が意図的にあるメッセージを潜在化し、巧妙に流した場合です。第二は、当事者自身も潜在的に特定のコトバやシーン、アイテム、ストーリーなどを選択していて、それが結果として、サブリミナルな世論操作や流行操作を成功させている場合です。
ベテランの政治家やマスコミ関係者は、別に心理学の専門家ではありません。また心理学の専門家であっても、サブリミナルなマインド・コントロールが本当に効果を挙げたか否かを、正確に測ることは、不可能に近いのです。しかしそれでも、政治家やマスコミ・広告関係者たちは経験的に、どうやればうまくいくかを知っているように、思われます。したがって現象には、このふたつのケースのうち第二のほう、つまり情報の送り手も受け手も始終無自覚であるケースが、より頻繁に起こっているのかもしれません。

p241
ひとつの極端な立場では、外見的に心があるのと同様とふるまいをしさえすれば、心を「実現」したといえます。後は見る側の認知様式の問題であり、心を持つということは、これ以上でも以下でもないと考えるのです。この考え方を、今かりに「心の外見主義」とでも呼んでおきましょうか。この立場をとればラディカルな行動主義(哲学的行動主義)の立場となり、潜在的過程の一元論となります。けれども、それでは「見る側の認知様式」というのは何なのか、いったいどのようにして成立したのか、依然として謎は積み残されているように感じられます。
もうひとつの似て非なる考え方によれば、自覚的思考や顕在的知性は、単純な感覚ー運動連鎖の階層化・メタ化の果てに出現する(ニューラルネット理論家なら「創発」すると表現する)特殊な性質にほかなりません。つまり自覚的なメンタル・プロセスは、ただ単に見る側の認知様式の問題ではなくこうした意味でシステムの側に属する機能であり、性質であるという点で、第一の解釈とは違うのです、それでもなお、自覚的過程がつねに無自覚的過程から派生し、それに基づくものであると考える点は同じです。この立場を「創発主義」と呼んでおきましょう。
この後のほうの立場をとれば、潜在的過程/顕在的過程の二元論となります。あるいはこの両者の関係が連続的であるとすれば、その関係を考えなくてはなりません。どちらからどちらに、どのように発達するのか。あるいは加齢や脳の損傷によって損なわれるときには、どちらからどのように損なわれてゆくのか。また、いったん顕在的に処理された情報が、潜在化するということはあり得るのか。あるいはその逆に、潜在的だった内容があるとき突然顕在化し、自覚されるなどということが起こり得るのか。

p255
ある行為が「目的にかなっている」ことは、しばしば自発性・意図性あるいは随意性の指標とされます。いうまでもなくその逆は、盲目性・機械性とされるわけです。けれどもこれまでの紹介からもわかるように、合目的性と機械性は、実は矛盾しません。機械的に反応しているはずの断頭カエルでさえ、目的にかなう柔軟性を示すからです。そこで端的にいうなら、自発的でなくすなわち随意的でない運動も、場面に応じた柔軟な合目的性を持つということが、十分にあり得るようです。

p276
「私たちの感情の実際の起源と、私たちが起源だと思うことは違っている」「実際に私たちの経験をもたらした認知過程と、それに対して働く自覚的で言語的な解釈システムとはちがう」

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感想投稿日 : 2018年4月12日
読了日 : 2018年4月12日
本棚登録日 : 2018年1月3日

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