80歳、パーキンソン病の詩人、石牟礼道子さんと詩人・伊藤比呂美さんの「死を想う」こと。伊藤が聞き手となって、石牟礼の家族の死のこと、そして自分自身の死のことを聞いている。
伊藤自身も両親を介護しながらだから、いずれかならず訪れるであろう身近な人や自分自身の「死」について考えている、うちに、話は「梁塵秘抄」に行き着く。後白河法皇の編纂した歌謡集で、平安時代の当時からどのようにして死んでいくか(そして、仏になるか)はずっと人々が思い悩んでいたということらしい。
仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ
なにかこう、人々が朝早くぱっちりと目が覚めてしまって、ふと音のしない明け方、ぢっと仏のようなものが見えた気がする。
石牟礼がパーキンソン病で動かなくなっていく体をどうにかこうにか動かしてとつとつと生活する中で、朝、目覚めると「ああ、まだ生きていた」と思うことがあるらしい。このなんともいえない寂寞感は、80代になっても、20代でも、あるもので。
「読書感想文」といわれると難しいけれども、人々が自分の死を想起したときにおこる「あの、感じ」をすでに後白河法皇は汲み取っていたし、後白河法皇の「歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした」という意思も、こういったかたちで21世紀の日本にもひっそりと伝わっているんだよ、という、そういう話、であります。
この本が誰かの救いになるかどうかはわからないけれども、ただ、石牟礼と伊藤とがひそいそと梁塵秘抄を朗読している様は、非常に、確実に、心温まる、救いに通じるものがある。
- 感想投稿日 : 2013年7月1日
- 読了日 : 2013年7月1日
- 本棚登録日 : 2013年7月1日
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