この本の存在を、わたしはずいぶん幼いころから知っていた。けれど、読めずにいた。というのも、一本の映像作品がトラウマのような記憶となって、わたしを同書からながらく遠ざけていたからだった。その映像というのは、『映像の世紀』というドキュメンタリー作品で、わたしがみた一本は、アウシュビッツ収容所がソ連軍によって解放された直後の様子を映していた。小さな部屋に隙間なく重なりあう、人のかたちをしたようなモノの山。わたしは最初、それらがマネキンだと思った。いや、そう思いたかった。けれど、それらはたしかに人間だった。しかし他方では、その人間が生前いったいどんな様子で笑うのか、話すのか、まったくわからないほど痛めつけられた、やはりモノのようでもあった。それほどまでに、映し出される屍には「人間らしさ」が奪われていた。次のとき、その屍の山をブルドーザーで(!)かき集める(!)映像をみたとき、私の心はからっぽになった。
わたしは、この映像作品でみた屍のかっと見開いた眼をもう一度思い出すのが怖かった。「人間に尊厳などない」と思い知るのが怖くて、ホロコーストを扱った著作をながらく遠ざけつづけていた。しかしある機会を得て、「人間の尊厳」を問い直すため、本書を手にとることとなった。
筆者が度々挙げる「羊群衆」と「囚人番号」は、未来の目的を失った囚人たちに「自己」を奪っていった。「生きる屍」―尊厳を奪われたモノ―となるのである。しかし囚人が、強制収容所という単なる社会環境の産物とみなす構造主義的な見方に筆者は疑問を投げかける。人はこの極限の状態においてもなお、「ほかのようにもでき得る」という精神的自由、「すなわち環境への自我の自由な態度は、外的にも内的にも在り続け」、「苦難と死とが人間の実存をはじめて一つの全体にする」と筆者はいう。戦時下の人々を支えたこの実存主義的人生観は、かくも勇ましき「人間の尊厳」のひとつのかたちだと思った。
この本を読むなかでわたしが涙を禁じ得なかったのは、「愛」について語られるときだった。無関心、無感動の「生きる屍」を「生きる人間」へと変える「愛」は、「結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理」だと筆者は語る。筆者が仲間の囚人に伝言としての遺言を何度も語るとき、そこに無関心も無感動もない。彼は大切ななにかを思うとき、「人間」になるのである。
また筆者は、その極限の状態のなかにあっても学問への「愛」を捨てなかった。彼のこの「愛」は、「人間の尊厳」の宿らぬ屍たちにそれを取り戻すひとつの力となる書物―『夜と霧』―を生んだ。
しかしそれでも、それでも、わたしが『映像の世紀』でみたあの屍はやはり屍であって、元にはもうどうやっても戻らない。「人間の尊厳」を奪い去った権力がいつ我々を支配し、ふたたび屍の山を生むともしれない。筆者の心理学的な視点に隠された「生と死への勇ましさ」や「愛」を少なからずであっても知った今、わたしは恐れずにあの眼と向き合おうと思う。
- 感想投稿日 : 2015年11月23日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2015年11月23日
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