代替医療解剖 (新潮文庫)

  • 新潮社 (2013年8月28日発売)
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感想 : 86
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代替医療の問題についてはかなり前から気になっていて、一度時間をかけてしっかりした本を読んでひと通りの基本事項を頭に入れたいとおもっていた。そして代替医療を批判をするにしてもどういうロジックの組み立て方があるのかを見ておきたかった。科学的なデータに基づいて代替医療を分析した一般向けの書物はきっとたくさんあるんだろうけど、文庫でお手軽に手に入り評価も高い本となるとやはり『代替医療解剖』だろう。サイモン・シンといえば自然科学の話題を一般向けにわかりやすく解説した数々の著作で本邦でもすっかりおなじみである。期待通り、本書のクオリティは高い。医療の有効性を適切に評価するには一体どのような試験が必要なのか、医療の歴史をひもときながら初心者にもわかりやすく解説されている。最初に「科学的根拠に基づく医療(EBM)」の基本を解説した上で具体例を見ていく構成なので、なにより明快である。また著者にエツァート・エルンストが加わり、科学的なデータの取り扱いや分析など専門性が要求される場面での情報の確度、信頼性を一段高いものにすることに貢献しているとおもわれる。そして代替医療に対して本書が下している評価も十分納得できるとおもう、「科学的な視点に限定すれば」。実際科学的な分析についてはまったく申し分ない。といっても素人のわたしが厳密に判定できるわけではないけれど、科学的な分析に重大なまちがいがあれば辛い評価がつけられているはずで、その点はひとまず信頼してよいだろう。しかし、この「科学的な視点に限定すれば」というのが相当曲者。
たしかに代替医療の有効性や安全性に論点をしぼるなら、本書の結論は妥当である。仮にわたしが主流の医療に不満を持ったとしても、有効性や安全性の不確かな、あるいはプラセボ以上の効果が見込めなかったり危険があったりする代替医療に手を出したいとはおもわないだろう。その点に異論はない。しかし本書の主張は「医療はどうあるべきか」にまで射程がおよんでいる。そうなると「代替医療の有効性や安全性を検証したらこうなりました」という科学的な視点だけで「だからこうすべき」と結論を急げば当然無理が生じてくる。事実、本書の6章はかなり議論が粗いと言わざるをえない。
たとえば著者らは「効果が証明されていない、または反証された医療を広めた責任者トップテン」と題して、さまざまな人たちを批判する。メディアを「代替医療に対しては、あまりに肯定的、かつ素朴な見方を示す傾向」がある一方で「通常医療のリスクをセンセーショナルに報道する」と批判している。メディアに対する本書の指摘はたしかに当を得たものである。しかしそもそも「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」と言われるように、ニュースの価値は必ずしも内容の正確さだけで決まるとは言えず、情報の意外性やもの珍しさで決まる面も多分にある。この前提に立てば、メディアが代替医療を肯定的、通常医療のリスクを批判的に報じるのだとすると、それは代替医療が(よくて)玉石混淆、通常医療は信用できるというのが世間の相場だという状況の裏返しと解釈すべきことであり、それは著者らにとっても悲観すべきことではないはずである。ところが著者らは「(主流の医療に対して)新聞や放送局はいたずらに攻撃的」「小さな問題を大きな恐怖にふくらませたり、暫定的な調査結果を、国全体の医療にとっての脅威に仕立てたいという気持ちに逆らえないようである」などと「想像力」をたくましくしながらメディア批判を展開する。メディアに批判されるべき点があることに異論はない。しかし一方でメディアとはそういう性質を持った存在であり、踏みこんだ批判をしようとすれば情報の受け手になっている大衆への批判もさけて通れない。それにしては本書のメディア批判はあまりに表面的だし稚拙と言わざるをえない。
また著者らは「政府と規制担当当局」にも責任があるとする。政府は規制をするなどして「積極的な役割を果たすべき」だが「政府は代替医療に穏便な対処」をしており、「政府は……あいまいに逃げてきた」と主張する。たしかに科学的な検証結果と現実を見比べてそのように結論したくなるのは理解できる。しかしたとえば日本の場合を見ても、医療行為については国が資格を与える制度設計になっているし、医薬品などについても薬事法で規制がなされている。ルールを満たしていないものについては品質の保証はありませんという形で、規制の内側と外側とで線は引かれているわけである。著者らは「代替医療は安全性を問われない別世界のなかで、ほとんど規制を受けずにすんでいた」と主張するけれども、そもそも医療制度の枠組みの外側と内側とが同等の条件でないのは当然の話だし、枠組みの外側でやっている人たちに内側でやらないのはおかしいと言う筋合いもないだろう。もちろんそれだけでは一般の消費者が被害を受ける危険もあるので、消費者保護のために政府が規制をきびしくするという方向の議論はあってもよいとおもう。しかし代替医療の包括的な規制となると政府の介入がかなり強力になるので、相当慎重でなければべつの問題が生じる危険性が高い。たとえば本書の付録の「代替医療便覧」にはさまざまな代替医療が列挙されており、その中にはどういうわけか風水が登場する。著者らは風水を「代替医療」だと認識しているようだけど、風水は占いの類であって、少なくとも医療介入でないことは明白である。占いの類まで「代替医療」にふくめて議論するということは、つまり著者らは占いの類であっても規制の対象にすべきと考えていることに他ならない。そうなると著者らが好むと好まざるとにかかわらず、オカルトはもちろん神秘を主張する宗教なども規制の射程に入らざるをえなくなってくるだろう。問題はそこまで巨大な権限を政府に認めるべきかどうかを科学的な視点だけに基づいて決めることの妥当性である。「政府は……代替医療産業と対立するのを恐れているのかも」だの「有権者の気分を害したくないのかも」だのといった推測はもはや行政に対する無知を露呈するものでしかない。
著者らは医師たちにも問題があると主張する。この点については一理ある。とくに「(患者が)代替医療を使うきっかけの少なくとも一部は通常医療への失望である」という指摘は重要である。ただ、個々の医師の態度が通常医療への失望を生む原因のすべてなのかという点はもっと掘り下げるべきだろう。主流の医療では医師の診察時間が短くなりがちで、しかし診察時間を長くするためには莫大な予算が必要になる。この点は一応言及されているけど、課題はそれだけではないだろう。国ごとに事情はちがうものの、たとえば待ち時間が長すぎるだとか、そもそも病院へ行くにしても制約があるだとか。アメリカにいたっては医療費が相当高額で、お金もなく保険にも入っていない人にしてみれば、代替医療の方が安ければそっちに行くことは十分考えられることだろう。「セレブリティ」が代替医療を選択することについては本書でも言及されているものの、他方でお金のない人にも事情があるわけである。「政府と規制担当当局」によって解決されるべき医療の課題には、こうしたことも少なからずふくまれるとわたしはおもうけれど、本書は「政府と規制担当当局」に対しては規制のあり方を問題にするばかりで、医療保険制度全体をどうすべきかという視点を欠いているようにおもう。
たとえば本書は「スモールウッド・レポート」について、「彼とその研究チームは医療経済を専門としているわけではなく、実際、代替医療に関する研究データの読み方はあまりにも甘い」と批判を加えている。なるほど、科学的な視点に基づいてこのレポートを切って捨てるのはたやすい。では、こういうレポートが出てきた背景にたとえば、国家予算に占める医療費をとにかく圧縮したいという動機付けがありそのために代替医療が検討された、というような事情はなかったのだろうか。あるいは通常医療のコストがあまりに高額なので代替医療が積極的に検討されているという側面はないのか。本書では一部の代替医療について高額であるとか金儲け主義であるなどの批判が見られるけれども、そういうミクロな話ではなく、国家予算の規模で見て医療費はどうなのかという議論をしないことには、代替医療を支持する大きな動きが出てくる背景について説得力のある説明はできないのではないだろうか。「科学的な視点に基づけばこういう結論が出てくるのに現実はこれに反している、ということは彼らが真実を知らないにちがいない」ではなくて、「現実が理屈の通りになっていないのはどうしてなのか」とさらに考えることができればもっと深い分析ができただろうに、とわたしはおもう。
本書は6章でさまざまな人たちを批判しているけれど、そうした中でも医療について知らない一般の人たち、つまり患者になるかもしれない人たちに批判の矛先を向けないのは徹底している。この姿勢は大変評価できる。本来説得すべき相手を無知だと批判してもいいことは何ひとつないからである。著者らはプラセボ効果に頼った治療を避けるべきという考えを示し、「医師と患者の関係が、嘘のない誠実なものであってほしい」と述べる。この点にはわたしもなんら異論はないし、そうあってほしいとおもう。しかし一方で、本書の筆致には権威主義的な部分が見え隠れすることもまた事実である。実際、代替医療を包括的に規制しようなどというのは「パターナリズム」の極北だろう。あるいは、すべての人たちが「科学的根拠に基づく医療」を理解できれば「パターナリズム」ではないと言えるかもしれないが、それはより一層現実味のない、「すばらしい新世界」のような想定である。本書には、著者らはあわせて三つの博士号を持っていると主張する下りもあるけれど、その割にはすでに述べたように科学的視点の射程外にある論点にまで結論を下そうとしていたりするなど、粗雑な議論が散見される。権威主義臭さを消臭するならするで、もっと徹底的に隠しきってほしかった。
本書の批判は英国皇太子にもおよんでいる。もちろん事実に基づいた批判なら問題はないはずである。ところが本書では皇太子とMHRA(英国医薬品規制庁)の関係について陰謀論じみた説を紹介しており、この下りは本書の品質をはっきり低下させているとわたしは感じる。実際、著者らは5章で「代替医療業界は、主流の科学者たちを悪者にすることで新たな患者を獲得しようとする」と述べ、「科学に対する攻撃」のパターンを分類してみせる。そして「科学は代替医療に偏見をもっている」というのは「ありえないことだ」とただちに棄却している。なるほど、たしかに「科学者の世界は、自分の主張を支持する証拠を見出すことのできた反主流派を暖かく受け入れる」というのは正しいかもしれない。しかし「科学は代替医療に偏見をもっている」とする主張を棄却しながら、一方で陰謀論じみた説を無批判に紹介しているのでは、まるで説得力がない。著者らは代替医療のセラピストたちについて、「弱い立場の人たちを食い物にし、金を搾り取り、ニセの希望をもたせ、健康を損なう危険にさらし続ける」存在と考えているようだけど、その意見が前に出すぎるあまり自分たちの批判する対象と変わらぬ水準の主張に手を出していたのでは本末転倒である。
代替医療についてわたしが一番知りたかったのは陰謀論などではなく、たとえば次のような問題である。「通常医療では有効な手段のなくなってしまった人が代替医療を受けたいと言った場合に、それを止めるよう説得することは可能か」。この問題は科学的視点に基づいた合理性だけでは解決できない。本書ではガンを患った人が通常医療なら助かる見込みが十分あったにもかかわらず代替医療に頼ったことで命を落とした、という事例がくり返し紹介される。患者たちの判断はいっけん不合理に見える。しかし彼らがもし何らかの理由で「通常医療では助からない」と信じこんでいたならどうだろうか。あるいは本当に通常医療ではどうにもならない場合、代替医療に頼る判断は不合理と言えるのか。この問題に対して本書はどのような処方箋を示すのか、と期待を抱きながら読みすすめたけれど、ついに見解は示されなかった。「通常医療への失望」という問題は提起されているにもかかわらず、である。
最初に述べたことのくり返しになるけれども、医療の有効性と安全性を科学的に検証するという点では本書の解説は申し分ない。しかし科学的に得られる結論と現実との間でどのように折り合いをつけるのかという論点の設定が不十分であったり、お粗末であるなど、期待外れの面も小さくなかった。以上をまとめると、代替医療を科学的に分析した本で、手軽に入手できるものとしては本書はかなりクオリティの高い本である。一方、入門用にはボリュームが明らかに多すぎるし、多様な論点をくわしく知りたい向きには食い足りないなど、対象としている読者がよくわからないのが難点である。サイモン・シンの著作をわたしはこれまでに何冊か読んでいるし、それらはたしかに満足できる品質だった。しかし率直に言ってこの本は、サイモン・シンのブランドの割には言うほど大したものでもないとわたしはおもう。代替医療の科学的な分析を軸に据えたいなら、その射程外にあることについては安易に判断を下さないか、さもなければ射程外の論点を慎重に拾っていくしかないだろう。その割り切りが十分にできていないという点で、わたしは世間で言われているほどに本書を高く評価できなかった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2017年11月4日
読了日 : 2017年11月2日
本棚登録日 : 2017年11月4日

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