『球形の荒野』ではない。『球形の季節』だ。
『六番目の小夜子』に続く恩田陸の2作目だが、恩田陸としてはすでに完成しているんだけど、でも、まだまだ途上みたいな?w
続く『不安な童話』やその次の『三月は深き紅の淵を』になると、逆に(プロとして)暗中模索しているのが窺えるんだけど、これは、自分が書きたいのはコレ!(というよりは、今はコレしか書けない?)みたいな勢いがあって、そこがいいんだと思う。
確か、『六番目の小夜子』のあとがきで、著者は“「少年ドラマシリーズ」のオマージュとして書いた”みたいなことを書いていたが、これもまさにそんな話。
すごくそそられる展開に対して、結末は尻すぼみという流れは「赤外音楽」に近いw
(もっとも、「赤外音楽」は怖すぎて最後まで見られなかったのでw、あくまで原作の結末)
ただ、この話って。それなりの結末をつけたら、逆につまんなくなっちゃったんじゃないかなーという気もするかな。
というのも、どうやらこの話の真相というか、底流にあるものは、晋や静の世界らしいんだけど、この話にその世界観でそれなりの結末をつけられてもなーという気がするのだ。
その世界観って、普通に考えればホラーやファンタジーだし。
もしくは、変な屁理屈もってきてSFにするというものあるとは思うんだけど、でも、そういう話になっちゃたら、主人公がみのりというキャラクターでいいの?ということになると思うのだ。
この話の魅力は、みのりというどこにでもいる平凡な女子高生と、その周囲のやっぱり平凡な人たちが暮らす谷津という、やっぱりこれもどこにでもある平凡な東北の小さな町に起きる、“日常の”不思議な出来事という、あくまでそのレベルの話なところにあるんだと思う。
解説では、ファンタジー云々と語られているけど、そうではなくて。
言ってみれば、「日常の謎」として解釈してしまうなら解釈できてしまって(だって、ほとんどの人は晋たちの世界は知らないわけだもん)、後に誰もが「あの時のあれって不思議だったなー」と思い出すみたいな、たんなる淡い青春譚と読めるからこそ、読者(特に恩田陸のファン)は惹きつけられるんだと思うのだ
例えば、変な話、心霊スポットに行ったところで、何もないことが普通なわけだ。
でも、それだとつまらないから、写真に写った水滴を「オーブだ!」とみんなで共有することで思い出にする。
と言ってしまったら身も蓋もなくなってしまうけど、でも、これってそういう誰しもの青春にあった出来事の話として読んだ方が楽しめる気がする。
ていうか、恩田陸の小説の魅力って、そこなんだろう。
プロットで書く小説全盛(なのかどうかは知らないw)の中、書くことで想像がどんどん膨らんで、ストーリーが勝手に動き出すタイプの作家の小説というのは独特の魅力があるし。
なにより、読んでいて面白い。
恩田陸という作家は、その極端なパターンなんだろうw
とはいうものの、この小説、青春譚として読むには、主人公であるみのりの存在感が妙に薄いんだよなー。
それこそ、みのりの関係ないところで、話がどんどん展開されていく。
だからって、話を展開していく登場人物たちも、その展開の必要に応じてちょこっと出てくるだけだから、やっぱり存在感がなくて。
際立つ登場人物がいないことで、さらにみのりの存在が希薄になっていくような気がする。
それも青春なんてそんなものと言ってしまうなら、確かにそうなんだろうけど。
とはいえ、これは小説なわけでw
個人的には、みのりと久子の二人を主人公に書いたら、ストーリーがもっと締まったんじゃないのかなーなんて思った。
- 感想投稿日 : 2021年5月5日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2021年5月5日
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