冒頭で述べられているように、近年、コンピュータサイエンスおよび通信技術が驚異的に発展したが、それのテクノロジーは相対的にはそれほど発展していないかもしれない。また、生活も、コンピュータサイエンスの発展ほど、劇的に変わっていないかもしれない。
スマホの窓の中では、驚異的な発展があり、technological singularityを真剣に検討しなければならくなっているが、それが現実世界においてどれほどの変化をもたらしたかは、まだあいまいだ。
私は、ソフトウェア技術を生業としてきたが、技術そのものはもちろん、その発展を実際の生活においても役立てられるような社会変化をもたらすにはどうすればいいのか?という関心がある。
ニーチェは、狂気の定義の難しさ、いな、もっと言えば定義不可能性を示してくれた。狂気とは、道徳と同様に、社会通念、マジョリティーからのお下がりでなされる定義であり、何かの定義から演繹的に判断できるものではない。
これはバブルも同じだ。株価バブルも、バズワード、流行も、それが「狂気」や「一過性のブーム」なのか、あるいは「ターニングポイント」だったのかは、後置的である。すなわちそうなるようにするほかない。
曖昧な悲観主義は自己予言的、曖昧な楽観主義は自己矛盾的。アメリカのシリコンバレーでさえ、計画より、リーンスタートアップというダーウィン主義がはびこっている。リーンであることは手段であり、目的ではない。闇雲にやって成功したものを選べばいいという、最悪なダーウィン主義ではなく、
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ビジネス/自己啓発/処世術
- 感想投稿日 : 2021年4月4日
- 本棚登録日 : 2021年3月30日
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