久しぶりに保坂和志を読んでやはり著者の小説観は素晴らしいと実感。小説を読むとは読んでいる体験のことであって、ああこういうタイプの小説ねとか、期待した感情(感動とか、怒りとか、)を得るために読むものではないということ。
小説家とは小説やフィクションというコードがあってそれに沿って書く人のことではない。だから例えば著者の小説で描かれる猫は単に猫であり、何かを象徴・表象するために書かれているわけではない。また大人の男女が2人いたらそこにセックスが描かれないと小説っぽくないというのもコードだ。さらに単に会話文を続ければ小説になるものでもない。これは著者が引用するトルストイのアンナ・カレーリナの文章を読むと単純な日常の会話が臨場感をもって浮かび上がるように描かれているところなど、ああ小説によってもたらされる体験とはこういうものだよな、と思わずにはいられない。
本書内で著者が何度か書くようにいわゆる上手い文章は小説らしいのだけれど、それはあくまでも小説のコードに従って書いているだけで、小説を読むという行為の結果として読者の価値観に変更はもたらせられないだろう。そのような小説からいかに脱却するか、それが現代において小説家になるということなのではないか。
まあ、そうではない小説観を持つ人がいることは否定はしないけれど、私は著者の小説観を支持したいと思う。
読書状況:読み終わった
公開設定:公開
カテゴリ:
未設定
- 感想投稿日 : 2022年5月15日
- 読了日 : 2022年5月15日
- 本棚登録日 : 2022年5月15日
みんなの感想をみる