母 (角川文庫 み 5-17)

著者 :
  • KADOKAWA (1996年6月21日発売)
3.95
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本棚登録 : 1144
感想 : 112
5

然程厚くない文庫本1冊の小説だが、なかなか濃密な感じだと思った。最近、少し積極的に作品を読むようになった三浦綾子の小説で、1992(平成4)年に登場した作品ということだ。
「小林セキ(1873-1961)」と名前を挙げて、直ぐに判る人は少数派であると考えられる。他方で「小林多喜二(1903-1933)」と名前を挙げれば、「“プロレタリア文学”の小説家」と判る人が多いと思う。小林セキは、この小林多喜二の母である。
本作は、小林セキの「一人称の語り」という方式で一貫している。或る日の午後、来訪者を迎えた小林セキが、夕暮れ迄にゆっくりと想い出等を語っているという体裁である。最晩年の小林セキは、娘の一人が嫁いだ小樽の朝里の家に在った。その家で話しているという体裁だ。
本作の内容は小林セキの来し方、家族のことということになる。小林セキは秋田県内の村で生れて育って小林家に嫁ぎ、子ども達も生まれ、やがて夫の兄が事業を起こして一定の成功を収めた小樽へ移って行くという経過を辿る。そして長男が夭逝したので実質的に長男という様子でもあった小林多喜二を巡る様々な事柄を振り返って語るというのが本作の内容だ。
小林家は地主であったが、後継者であった小林セキの夫の兄が事業に失敗して財産を損なってしまった。夫婦は貧しい小作農として村で暮らしていた。夫の兄は東京へ出て再起を目指したが巧く行かず、好況に沸いていた小樽へ移り、やがてパンや菓子の店を興して成功する。弟夫妻の長男の面倒を見たいと小樽に引き取ったが、長男は夭逝してしまった。その後、夫妻と子ども達は兄の招きで小樽に移る。小樽でも決して経済的に豊かとは言い悪かった。それでも多喜二は、父の兄、伯父の店で働きながら学資の支援を受け、小樽高商(現在の小樽商大)に学び、銀行に職を得たのだった。
こういうような一家の物語が、当事者たる小林セキの証言として綴られる本作である。
物語は、小説家としての活動で評判を得て行く他方、社会運動家として当局の弾圧の対象というようになり、やがて銀行を去って東京で活動するようになり、「逮捕後に惨殺」という事態に至ってしまう。そういう経過に臨んだ小林セキはその心情や承知している経過等々を語る。更に、その後の心の軌跡のようなことも語られ、穏やかに最晩年の時を過ごしていることが語られる訳である。
貧しい暮らしぶりながら、何か刺々しさのようなモノがなく、朗らかに暮らす親子という姿、兄弟姉妹という様子に心動かされる。小林多喜二は弾圧の対象になって、結果的に殺されてしまうのだが、「公平に仲良く暮らす人々の世の中を目指したい」とした多喜二の主張が殊更に奇怪なものであったとも思い悪い。そういう様子に触れ、明るく優しかった息子を悼む母の様子というものが凄く迫る。
「昭和」という時期が幕を引き、作者も70歳代に入ろうかという中、「我々が通り過ぎた“昭和”とは?」という問題意識で綴られたのが本作なのであろう。似たような問題意識の作品として、本作の少し後に纏まった、過日読了の『銃口』も在ると思う。
極々個人的なことなのだが、自身の祖母も秋田県出身だった。秋田県辺りの方言の抑揚が下敷きになった独特な話し口調だった。本作の「小林セキの語り」という体裁で綴られた文章は、その「祖母の話し口調」を想起させるもので、黙読していても音声が聞こえているような気がした。
何か経済的な事柄は事柄として、「心豊かな在り方」を追っていた、意図せずともそうしていた、互いの笑顔を糧にするかのような家族が在って、その一家の息子が如何したものか酷い目に遭ったというのが、小林多喜二の経過ということであろうか?何か深く考えさせられた。
本当に、或る高齢の女性が話していることに耳を傾けるかのような感じで、ドンドン読み進め、読み進める毎に余韻が拡がるような本作は御薦めである。或る意味で「平成の初め頃以上に殺伐としていないか?」という感じがしないでもない現在であるからこそ、本作が読者に「迫る」のかもしれないというようなことも感じないではなかった。
作品と無関係かもしれない余談だ。小林多喜二が学資の支援を受けた小樽のパンや菓子の店だが、後に製紙工場が進出した苫小牧に店を出している。この苫小牧の店の後継者がハスカップのジャムを使ったロールケーキを世に送り出す。現在も向上や店舗が苫小牧に在って、そのロールケーキも販売が続いている。小林多喜二の伯父が営んだ「三星堂」に因んで<三星>(みつぼし)という会社だ。苫小牧では老舗菓子店として通っているようだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 三浦綾子 作品
感想投稿日 : 2023年11月15日
読了日 : 2023年11月15日
本棚登録日 : 2023年11月15日

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