西太后秘録 近代中国の創始者 下

  • 講談社 (2015年2月11日発売)
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★2015年7月27日読了『西太后秘録(下)』ユン・チアン著 評価A

現代中国の基となる諸制度を革新的な取り組みで清朝統治下で導入しながら、女であるがゆえに?あまりに長く強大な統治を満州族が続けたがゆえに?歴史的には政敵からの根拠のない誹謗中傷によりおとしめられた世界三大悪女の一人とされる西太后(慈禧大后)を再評価する作品である。

 分かりやすく言えば、西太后(慈禧大后)は、日本の明治維新をたった一人で計画、実行へ導いた中国近代化の母であると著者は主張する。

 上巻での欧米列強の中国侵攻、日清戦争の外患と清朝内での苦難と実権を握るまでの物語に加えて、この下巻ではさらに過酷な試練を歴史は与えていたことを物語る。

下巻では、日清戦争に破れて莫大な賠償金を日本から背負わされた清国に、欧米列強はさらに租借という名の事実上の占領を押しつけた。光緒帝と慈禧大后は戊戌の変法(科挙試験制度を中止など)という清国の近代化を試し始め、康有為という有能な官僚が形にして実行するが、ことを急ぎすぎて様々な問題が噴出し、さらに袁世凱を使った慈禧暗殺を画策した康有為はとうとう失脚する。結局、康有為は、伊藤博文を通じて日本と取引をして、光緒帝を隠れ蓑に自分と日本の利益のために画策をしていた可能性が高いと著者は断じている。

 一時期、光緒帝に施政を譲った慈禧大后は、その実権を取り返すが、それが、列強の北京侵攻を招く。これが引き金となり、列強から北京を守るために、義和団という無法集団を自らの庭に招き入れることとなり、清国内の混乱に拍車をかけることとなってしまう。
結局、慈禧大后たちはさんざんな目に遭って、西安まで逃亡せざるを得なくなり、その移動時の苦難は大変なことであったようだ。

 また、その後、列強との講和がなり、北京議定書が調印され、列強が引き上げてから、清国国内は落ち着きを取り戻した。1901年からは、西安滞在時から諸制度の改革に本腰を入れ、北京に戻ってからはますます中世のままだった中国の近代化に取り組み、鉄道、電気、電信、電話、西洋医学、近代式の陸海軍、貿易、外交、教育制度の改革、新聞出版界の改革、さらには直接選挙制による立憲君主制への移行も実行した。

 慈禧大后のすごさは、それらの改革を穏便に進め、ほとんど犠牲者を出さずに次第に変更導入していったところであり、女性の解放も中国の悪弊であった纏足も次第に無くしていった。

 最後、1908年に彼女は改革の途中で息絶えるのだが、その清国の最期についても予測していたかのような素晴らしい仕掛けを施して、世を去っている。最期の瞬間まで、先を読み続ける希有の女性であったことが分かる。自分の死の前に、養子である光緒帝を先に毒殺し、後顧の憂いを絶ってから自分が死んでいる。また、後継者も後見人も決めてから、さらに最期の清国の死に水をとる皇太后までしっかり指名しているのだ。

 慈禧大后が当時の中国人がどう思われていたか、慈禧大后政権下で中国に育っていたノーベル賞作家のパール・バックの言葉に言い表される。「中国の人々は彼女を愛していた。みんながみんなと言うことではない。革命家、つまり現体制に我慢ならない人たちは心底彼女を憎んでいた。でも、農民や市井の人々は彼女を崇拝していた。」彼女が逝ったと人々は知ると「これからはだれがわたしたちを心配してくれるのか?そう言って彼らは泣いた。この言葉こそが支配者に下された最後の審判ではないだろうか」
 そして、慈禧大后の死の4年後に1912年に268年続いた清朝はその幕を閉じることになる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 中国現代
感想投稿日 : 2015年7月27日
読了日 : 2015年7月27日
本棚登録日 : 2015年7月27日

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