暇と退屈の倫理学

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  • 朝日出版社 (2011年10月18日発売)
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著者はデリダ、ドゥルーズ、ガタリ、フーコーなどフランス現代思想の翻訳に多数関わっている哲学者。各誌の書評で好評、紀伊国屋書店では特集コーナーも組まれていたので購読した。

横軸に暇がある/暇がない。縦軸に退屈している/退屈していないをとると、4つの座標ができるという。

<第一象限>暇がある、退屈している
・暇を楽しむ術がない大衆
・いつも気晴らしを求めている人(パスカルの解釈)
・時間をいつでも有効に使いたいという強迫観念に囚われている人、俗物、自己喪失の状態。(ハイデッガーによる解釈。退屈の第一形式)

<第二象限>暇がある、退屈していない
・暇を生きる術を持っている優雅な人
・有閑階級
・労働する必要のない階級
・高等遊民

<第三象限>暇がない、退屈していない
・労働を余儀なくされている人
・労働階級

<第四象限>暇がない、退屈している
・気晴らししているはずなのに、何だか退屈な気分に囚われる人。(ハイデッガーによる解釈。退屈の第二形式)

ハイデッガーは、暇と退屈の第四象限(暇がないけれど、退屈な状態)は、人間独自のあり方だと定義する。人間は選択し、自己決定する自由意志を持っているからこそ、暇と退屈な状態にさらされる。退屈な生を生きることは、人間の条件でもある。

第四象限=退屈の第二形式にある人間が時々、退屈の第三形式に落ち込むことがあるという。退屈の第三形式とは、ハイデッガーによると、「なんとなく退屈」な状態。人間は、「なんとなく退屈だ」という根源的迷いに到達するからこそ、今のままじゃいけないのではないか、何か決断する必要があるのではないかと思い悩むという。

ハイデッガーは、なんとなく退屈な状態を脱する為に、決断することをすすめている。しかし、ハイデッガーの決断主義は、ナチスドイツのファシズム的熱狂とも一致し得る。何かにとことん熱中することは、自己喪失の状態、熱中する対象に奴隷となる状態をさす。著者は、何らかの対象の奴隷となることなく、自己を保ったまま=人間の自由を保ったまま、なんとなく退屈な状態を脱するオルタナティブな方法を見定めようとする。

その方法とは、「暇がないけど退屈だ」という第四象限の状態=人間的な生の状態を維持しつつ、時々動物化することだ。

動物化とは何か。それは目の前のものそのものを受取り、享受する力。一つのことをとことん思考することとなる。

「動物化」というキーワードが評価されているようだが、結論はそれほどぴんとこず。思考の過程に出てくる様々な思想家の考えの羅列が面白かった。

著者は暇がある/暇がない、退屈している/退屈していないと肯定表現/否定表現で区分しているけれど、暇だ/忙しい、退屈だ/充実していると肯定表現同士で区分してみることにする。なお「退屈」の反対を「充実」とするのは、退屈ではない状態の解釈になるので、厳密には著者のように「退屈していない」と表現するのが正しい。


<第一象限>暇で退屈な人
・暇人
<第二象限>暇がある、退屈していない→暇があるけど充実している人
・セミリタイア
<第三象限>暇がない、退屈していない→忙しくて充実している人
・カルロス・ゴーン
<第四象限>暇がない、退屈している→忙しくて退屈な人
・現代人

「暇がない、退屈している」を「忙しくて退屈」と言い換えると、日本社会に生きる現代人だと思える。第二象限を「暇があるけど充実している人」有閑階級なんてセミリタイアした富豪くらいしかいないのではないだろうか。第三象限を「忙しくて充実している人」と言い換えると、そんな風になりたいなと思ってしまう。しかし、20世紀以前の哲学は、暇がないし、退屈もしていない第三象限の人間を労働を余儀なくされている人と定義しているのだから、皮肉だ。

労働を余儀なくされているなら、それは自己を労働の奴隷にしていると言える。奴隷としてでなく、自らすすんで動物的に労働を楽しんでいるのなら、それはカルロス・ゴーンみたいな人と言えるのだろうか。動物化した経営者の時代。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 現代思想
感想投稿日 : 2012年1月9日
読了日 : -
本棚登録日 : 2012年1月9日

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