仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解 (中公新書 2135)

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  • 中央公論新社 (2011年10月22日発売)
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感想 : 42
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 インドに生まれた仏教が、中国から日本へと伝わる過程でどう変容していったかを、さまざまな角度から概説した本。仏教受容をフィルターにした日・中・印三ヶ国の「比較文化論」としても、愉しく読める。目からウロコの知見も満載だ。

 私の目からウロコを落とした記述を、いくつか引用する。

《中国には天命説があり、帝王は「天の子」として民間信仰の神々より上位と見なされ、天命を受けた帝王に民衆は服従すべきものとされた。それは、一切衆生の平等や慈悲を説く仏教とは相対立するもので、中国での仏教の展開は将来の矛盾・対立をはらんで始まった。》

《インドには歴史書もなければ、地理書もなかった。釈尊のことも、歴史として記録されていなかったので、一九世紀末までヨーロッパ人たちは、架空の人物だと思っていた。ところが、一八九八年にピプラーワーというところで釈尊の骨壺が発掘され、歴史的人物だということが、やっと確認されたのである。》

《タイやミャンマーの僧侶たちは、独身を貫いているし、お酒も一切飲まず、日本の僧侶が結婚していることを非難している。「彼らは出家者じゃない」と。ところが、タバコは吸っている。戒律のどこにも「タバコを吸うな」とは書いてないと言うのだ。それはそうだ。釈尊の時代にタバコはなかったから。どっちもどっちで、五十歩百歩かもしれない。》

《「法要」という言葉には本来、儀式の意味は全くなかった。それは、「法の本質」、「真理の教えのエッセンス」という意味であった。
(中略)
 ところが、わが国では「法要を営む」というように用いられて、仏教の儀式を意味する言葉になってしまっている。「教えの本質」よりも「儀式」、「形式」を重んずる傾向ゆえであろう。》

 ただ、仏典翻訳についての記述は、一般書にしてはトリヴィアルにすぎる部分がある。
 とくに、第2章「中国での漢訳と仏教受容」は、本来のテーマから脱線して「仏典翻訳四方山話」になってしまっている。
 たとえば、法華経の「如蓮華在水」の「蓮華」について、一般には白蓮華(プンダリーカ)のことだと思われているが、じつは紅蓮華(パドマ)のことである、と一項を割いて論じているのだが、私などは「そんなの、どっちでもいいんじゃねーの」と思ってしまうのだ。法華経や維摩経の梵漢和対照・現代語訳を成し遂げた著者としては、そのへんをなおざりにはできないのかもしれないが……。

 と、ケチをつけてしまったが、勉強になる良書には違いない。
 また、著者の仏教学の師である中村元への敬愛が、全編にあふれている点も好ましい。「中村先生はこう言われた」などという記述が随所にあるし、終盤に紹介された中村元の最期についてのエピソード(昏睡状態の中で、45分にわたって仏教学の“講義”をしたという)も感動的だ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 宗教
感想投稿日 : 2018年10月29日
読了日 : 2011年12月14日
本棚登録日 : 2018年10月29日

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