一神教 VS 多神教 (朝日文庫)

著者 :
制作 : 聞き手/三浦雅士 
  • 朝日新聞出版 (2013年6月7日発売)
3.92
  • (2)
  • (8)
  • (3)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 65
感想 : 4
4

第1章「一神教は特異な宗教である」
エジプトの奴隷たちの一部が、モーセの指揮のもとに反乱を起こし逃亡した。エジプトの一神教の神アトンを源流としたヤハウェを信じ団結し、ユダヤ教とユダヤ人が生まれた。つまり、ユダヤ教は被差別者の宗教で、迫害されて恨んでいる人々の宗教である。自分たちがもともと信じていた血のつながりのある神々が守ってくれなかったので、他人の神に飛びついた。いわゆる契約の神、養子縁組ということなのだ。
キリスト教はローマによってヨーロッパに押し付けられたものであり、普遍性を主張する不寛容な宗教であるから、土着的なものを徹底的に根絶しようとした。ヨーロッパ人の精神世界は分裂し、二重構造になった。その抑圧されたものは、いつか抑圧の壁を破って噴き出す。ヨーロッパ近代の混乱はその結果である。ルネサンスは、抑圧されたものの回帰である。白人は黒人から差別され北方へ追いやられ、また南下してきたのがセム族と言われる人々で、ユダヤ人とかアラブ人である。ローマで奴隷や傭兵として最下層民として使役された北方白人を中心に広がったのがキリスト教である。ユダヤ教もキリスト教も根に差別されたことへの深い恨みがあり、それが逆に黒人差別として表れているのだ。エジプト人やギリシャ人は、黒人だったという説がある。
第2章「自我は宗教を必要とするか?」
一神教というのは、好ましくない状況、屈辱的状況においつめられて、そこからの逃避として唯一絶対神にしがみつくということで、イスラム教も同じような状況で成立した。唯一絶対神という妄想を発明して、それにしがみつくのは弱い人間の一般的傾向で、近代日本も一神教の欧米の脅威にさらされて、天皇制という疑似一神教を生み出した。
人間は本能の壊れた動物であって、本能に代わる行動指針として自我を作ったのであり、この幻想の支えとして神は実に好都合だった。人間の自我は他から切り離されて孤立しているので、個人が死んで自我が滅びるのは耐え難い恐怖である。その恐怖を鎮めるために、実は自我というものは切り離されていないんだ、神に繋がっているんだという信仰が必要とし宗教が生まれた。
自分の自我を支えている神が普遍的に他者の自我をも支えていると信じていたキリスト教徒はえらくはた迷惑である。世界に正義はひとつしかないと信じたい人も同類である。
第3章「なぜ多神教は一神教に負けるか?」
文字が発明されたのは、共同体の外の人々、血のつながっていない人々と関りをもとうとしたからである。文字というのは、目の前の具体的世界とは別の抽象的世界をつくるには不可欠であるのだ。だから、血のつながった神を信じる民族には文字は必要ないかもしれないが、文字がなければ一神教は成立しない。ヨハネによる福音書冒頭の「はじめに言葉(ロゴス)あり」というのは不可欠なのである。
自我など強くないほうが良い。他人のことなんか気にかけない、他人の気持ちなんて平然と無視できる強い自我を持とうとしたために近代日本人は対人恐怖症が増えたのだ。
一神教は人類の癌である。唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、人類に最大の災厄をもたらしている。自我の強さはその癌の進行度のようなものだが、病気の重い連中のほうが、自我の弱いやつに勝ってしまう。人類史で言えば、ネアンデルタール人の絶滅がそうであり、やられたほうが善良そうである。
第4章「科学も一神教か」
一神教はというのは、世界を一元的にみる見方である。つまり一つの世界観であり、これによって近代ヨーロッパの世界制覇を可能にした。ヨーロッパの思想の流れというのは、デカルトであれ、スピノザであれ、カントであれ、ヘ-ゲルであれ、みな、神と言うが、要するにその神と言う概念を、理性という普遍的な真理の方向にずらしていった。ひとつの一貫した原理で世界を把握するという一神教的な考え方は、18世紀の啓蒙思想、19世紀の唯物論にいたるまで、全く違っていない。神を理性とか、真理とか、正義とか、いろいろいいかえるだけ。スペインがアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼしたのも、キリスト教徒は人間じゃないと信じていたから、原住民を良心の呵責なく簡単に虐殺することができた。
科学は宗教的情熱に動かされて、既成宗教のキリスト教にとって代わろうとした。理性崇拝の宗教である。だから、キリスト教の側があんなに怯えて弾圧に走った。理性崇拝が、理性を欠いていると見なされた者、すなわち、女性、未成年、未開人、精神病者などに対する差別の根拠になった。
科学主義であれ、理性主義であれ、たとえば世界は夢かもしれないという問題に関しては立ち入ることができない。私という現象、自我という現象をどう考えるかという問題は残ってしまう。科学は、自分が存在しなくても世界は存在すると考える。つまり、自分というものを説明すべき世界の中に含めていない。自我の起源の問題は、観念論つまり一神教の最後の砦である。が、それぞれ自分で考えるべきことかもしれない。
カール・ポパーはこう言う。論理的に実証できないものは科学ではない。自我に関わることもそうである。科学は仮説を提示するときに反証の可能性を提示しなければならない。反証が出てこなければ、出てこない間はそれが真理ということになる。だから科学は宗教ではないとした。
しかし、反証できないものは世の中にいっぱいある。反証できる現象と言ったら反復可能な現象でしかない。同じ実験をして別の結果が出るのをたしかめることができるということだが、この世には繰り返しのないことなどいくらでもある。例えば歴史は繰り返さない。だから、反証可能性がないと科学的真理ではないというのは、限定された自然現象にしか当てはまらない。ということは、人生の重要な問題のほとんどは繰り返しはきかないので、科学の対象ではない。
ポパーの考えそのものも科学主義であって、一神教から出てきたものではないか。反復可能なものに関してだけ真理があり得るというのであれば、時間的存在、歴史的存在に関する論理的な考察は封じられてしまうことになってしまう。一時、複雑系という考え方が流行したが、時間は基本的に一方向にしか流れないというもので、宇宙は反復しない、宇宙もまた取り返しのつかない現象だということだ。
エリアーデは、出来事をすべて歴史的なものとして記述するということを始めたのは、旧約聖書で言えばエリヤからエレミアにいたる預言者であるという。事件を神の意志の具体的な表現であると解釈することによって、歴史というものを発明した。それまでの神話的で円環的な時間を脱却して、一方的に流れる時間を発明したわけであると。
ボウカーの「苦難の意味」という本によれば、ユダヤ教、キリスト教の伝統というのは、苦難をどうやって意味づけるかということの歴史である。苦難が神の知るところとなり、いつかは報われないと生きていかれない。被差別民族が苦難のトラウマを記録に残すということで歴史が作られた。歴史とは神経症であるというフロイトの理論と照合するが、解消なんてできない。自国の歴史を絶対化するのは、はた迷惑である。歴史も科学も相対化による批判が必要である。
第5章「正義はなぜ復讐するか?」
自分が正義の側にいると信じていれば自我は安定するから、個人でも国家でも正義を称したがるが、その結果、引き起こされたことは、悲惨なことのほうがはるかに多かった。正義も法も相対的なものに過ぎないと考えればいいのだが、異質な共同体が集まった都市のようなところでは、絶対的なものがないと収まりがつかない。グローバル化は、どうしても一神教的なものを要請する。
自我というのは幻想なのであるが、人間社会は自我と自我のの関係で成り立っているわけで、自我が不当に被害を受けると、失われた自我に位置づけを回復しようとして復讐するのである。
自我はもともと他者を含んでいて、容易に他者に移し入れることができる。家族思いの人は家族に自我を移し入れている。国のために死ぬのも、国に自我を移し入れていれば、それほど難しいことではない。自我というのは幻想なのだから、個の肉体のなかにあるわけではない。
多神教にセクトはあり得ない。勝手に神様をつくればいいわけだから。一神教にしかセクトは起こり得ない。かつて仲間だったもの同士の争いは陰惨になる。
イスラム教がアラビア半島を制したころは、信者の主体はやはり貧民、奴隷階級という被差別階級だった。しかも、被差別階級自体が多くの部族に分裂していて、互いに略奪と報復に明け暮れていた。その上、アラビア半島は通商路で、ペルシャとビザンチンという二つの大国のあいだに挟まれて阻害され攻撃され、双方からいいようにあつかわれていた。この状況で統一するためには一神教が必要だった。エジプトとメソポタミアに挟まれて常に緊張を強いられていたイスラエルと同じ周辺人なのである。一神教は差別されている仮想階級がつくった宗教であり、逃走的になるのは当然である。一神教はまさに戦争の宗教である。
キリスト教は愛の宗教なんて言っているが、とんでもない。歴史が実証している。
エリアーデは「永劫回帰の時間」のなかで、歴史とは不幸の別名であって、古代人はその恐怖を回避するために円環的な時間を保持したという見方をしている。直線的な時間の中で忙しそうにしている現代人を徹底的に批判したのだ。プロテスタンティズムの凄さは、過不足なく暮らしている者にまで精神の飢えを与えたことである。のんびり暮らしている人々のところへわざわざ出掛けて行って「あなたは罪深いのだから、罪を自覚して戦きなさい」と説教したのだ。
第7章「イスラムはなぜ聖俗分離ができなかったか?」
近代ヨーロッパ人が、神を殺して全知全能になり、宇宙の法則をわがものにしたかったのは、ヨーロッパ人にとって、キリスト教が外部の赤の他人に無理やり押し付けられたものであったから、それに対する反発としてそのような欲望を持つに至ったのだ。ヨーロッパの近代自然科学はこのように成立した。
ローマ帝国によってヨーロッパ民族にキリスト教が成功した一因はキリスト教の聖俗分離にある。聖俗分離によって内面宗教になったキリスト教は、心の中でキリストを信じていることが重要で、ユダヤ教ほど外面にこだわらないから、ヨーロッパ民族の土着信仰のいろいろな儀式や習慣を取り入れることができた。しかし、この聖俗分離は内面と外面を使い分ける欺瞞であり、神と信者とのズレを拡大した。この聖俗分離が近代ヨーロッパの世界征服の成功の鍵ともなったであるが。
それに対して、アッラーの神と信じる者との間にほとんどズレのないイスラム教においては、神がすべてうまくやってくれてるわけだから、神そのものの原理を追求しようという動きはなかった。ノーベル賞作家のナイポールが、イスラム世界にあっては、後になって改宗した地域のほうが、よりいっそう過激になっていく傾向があるのだと言っている。自分たちのほうがもっと凄いということで独自性を主張するほかない。
イスラム教がキリスト教よりもっと手強いのは、時間的なもの、歴史的なものをまったくなくしてしまうことであり、因果関係がないということだ。あらゆる瞬間をアッラーが創造しているのである。自然科学などが発達する余地はない。結局、イスラム教で氏族分離が起こらなかったのは、他の一神教より純粋であったということだ。
ーとまあ、要点をまとめたが、実際にこの本を読んでもらったほうが、岸田秀氏の語り口の面白さがよくわかると思う。さて、私の信じる神は排他的ではないと思うけどね。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 宗教論
感想投稿日 : 2019年9月9日
読了日 : 2019年9月9日
本棚登録日 : 2019年9月9日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする