全共闘は驚くほどラディカルな思想を有していた。事物を関係性の元で見るのではなくあくまで事物そのものとして見るということは、討論の中でも触れられているが人類が事物に対して何ら意味づけをしていなかった時代と同じことをするということだ。確かにそういう風な見方をするためには<時間>という概念は必要なくなる。<時間>を導入してしまうと例えばそれは何のために動いているといった意味づけないしは関係性が嫌でも発生してしまうからだ。一方で三島由紀夫は全共闘のそういった考えを認めつつも<時間>という概念を無視することはできないと主張する。一番わかりやすい例は言葉であろう。ある共同体内で積み重ねてきた時間が言葉の違いなどを生じさせるからだ。これは文学者である三島にとっては無視することはできないだろう。そういったものすらも乗り越えられると考える全共闘と三島との溝はここにおいて出来上がる。討論後に全共闘Aが書いているが三島と全共闘の意見の対立は実はそれほど多くない。しかしながら<時間>という概念に対する捉え方の違い(これは「天皇」という言葉を使うか否かに集約されるのだが)この一点が三島と全共闘を引き離してしまうのだった…
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- 感想投稿日 : 2015年4月24日
- 読了日 : 2015年4月24日
- 本棚登録日 : 2015年4月23日
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