ホテルカクタス (集英社文庫)

著者 :
  • 集英社 (2004年6月17日発売)
3.56
  • (284)
  • (301)
  • (727)
  • (60)
  • (16)
本棚登録 : 3834
感想 : 356
5

良いですね。真似をして私はピアノとハンガーと音のファで書こうかしら。

----------------------
空気がぴんとした冬の朝でした。それは体の手入れをするのにうってつけの空模様でしたので、ピアノは力を込めて乾いた布で体を磨き上げていました。きゅっきゅ、きゅっきゅ。しんとした部屋に小さな音が鳴り響きます。

洗濯日和だ。窓の外の水色を眺めながらハンガーはぼうっと考えていました。散歩でも朝ごはんでも、何をするにもさぞかし気持ちのいい朝だろうと思うのに、ハンガーは自分が起き上がる気にはならないことを知っていました。それでそのまま空を眺めていました。

音のファは電話機の前でじっと電話がくるのを待っていました。特に誰かからかかってくる予定があるわけではありません。ただ電話というのはいつも突然鳴るもので、音のファはそれがひどく苦手でした。それで、ある時待っていればいいのだと思いついたのです。鳴るのを待っていれば、ベルの音に驚かされることはないのですから。音のファは今朝はかれこれ1時間も膝を抱えてじっとしていました。

ファからこの話を聞いた時、ピアノは驚いた顔をして、それからファに同情してくれました。なんなら、ファにかかってくる電話は全て自分の部屋につながるようにしようとも申し出てくれました。ファはその申し出にひどく痛み入りましたが、丁寧に辞退しました。ピアノから電話があったことを受ける電話を、結局とらなくてはいけないことに気が付いたからです。
そばで聞いていたハンガーは、電話線を引っこ抜いちまえばいい、とあっさり言い放ち、ファはそんなハンガーに憧れました。
3人それぞれに時間が過ぎる冬の朝のことでした。

✳︎はじまり
ファとハンガーが初めてピアノの部屋を訪れたのは雨が降り頻る梅雨の夜のことでした。
その日ファは自分がどうにもしっくりきていないように思えてなりませんでした。自分は本当に音のファだろうか。もしかしたらそう思い込んでいるだけで実際はそうでないかもしれない。一旦不安になるとファは中々気持ちを落ち着けることができないたちでしたので、一日中そわそわとし、耐えられなくなりピアノの部屋を訪ねていったのです。

ピアノとは顔を合わせれば挨拶をする仲でしたし、ひと目見た時から互いに相手を好ましく思っていました。なんと言ったってピアノと音のファですから、気が合うに違いないのです。それでピアノは、よかったらいつでも部屋に来てください、と顔を合わせるたびにファを誘っていました。ファもぜひそうしたかったのですが、何も用がないのに人を訪ねるなんてことは出来ませんでしたので、ぜひ喜んで、と答えるに留まっていました。

ピアノの部屋の前に立ち、玄関の横の小窓から光がもれていることを確かめると、ファはほっとしました。いくらなんでも人が寝ている時に訪ねていくわけにはいきません。

呼び鈴を鳴らして出てきたピアノがとても嬉しそうでしたので、ファは心の底からほっとしました。
「さあどうぞ。」ピアノはファを部屋に招き入れました。「いつ来てくれるかとずっとお待ちしていたんですよ。お茶は好きですか。」ファはもちろん、と答え、差し出された椅子に腰掛けました。
ピアノの部屋は何もかもがこげ茶色でしっくりきていました。ザアザアと雨が降っているのに窓は開けてありました。
「雨の音を聞くのが好きなんです。」お茶がなみなみと注がれたカップを手渡しながらピアノは言いました。2人は雨音に耳を傾けながらゆっくりとお茶をすすりました。

ハンガーがピアノの部屋の呼び鈴を鳴らしたのはファとピアノが互いの仕事について質問をしあっている時でした。ピアノがドアを開けると、ハンガーは困った顔をしてそこに立っていました。
「すみません。」と困惑したようにハンガーは言いました。「急にこんなことをお願いするのは心苦しいのですが、バケツをお持ちではありませんか。」
ピアノはすぐに部屋にとって返し、木の持ち手がついたそれを差し出しました。ハンガーはホッとしたようでした。
「雨漏りがするんです。」ハンガーはバケツを受け取りながらそう言いました。「鍋もコップもすぐいっぱいになってしまって。」それは大変、とファも部屋の奥から身を乗り出しました。「よかったら、たらいをお貸ししましょうか。豚を丸ごと洗えるくらい大きなやつです。」
ピアノとファはたらいや新聞紙を抱えすぐさまハンガーの部屋に行き、雨漏りを一時的に修復しました。
「月曜日になったら大家さんに相談します。」ハンガーはとても安心したようでした。「どうもありがとう。」ピアノとファは何かあったらすぐ自分たちの部屋に来るようにと言い、それぞれの部屋に帰って行きました。
雨は絶え間なく降り続いていましたが、その夜3人はとても心安らかに眠りに落ちたのでした。
こういうわけで、3人は友達になったのです。

✳︎散歩
物憂げなサックスの音色が部屋を満たしていましたので、ハンガーはもうすっかり日が落ちたことにも気がつきませんでした。ノックの音がしてファが訪ねてきたことに気づき、そういえば今日は木曜日だった、と思い出しました。木曜日は3人が夜の散歩に出る日です。ドアを開け顔を出すとファは安心したように笑みを浮かべました。
2人でピアノを呼び出しに行って、3人揃うとアパートの敷地を抜け出しました。木々の間に埋もれる街灯の光は寂しげですが、確かにそこにある、という感じがして目にするだけで心強いものでした。
散歩は誰かと一緒にしたほうが絶対にいい、というのが3人が見つけ出した結論でした。初めて3人で散歩に出た時、それは夏の始まりの涼やかな夜だったのですが、3人はすぐ意気投合し、散歩をするときはお互いを誘うことを誓い合ったのです。
散歩はすぐに3人の生活に定着しました。外に出るというのはそれだけで新鮮な気持ちがするものですし、誰かと一緒なら夜の街も怖くありませんでしたから。
「週末はきっと嵐が来るな。」ピアノがそう言い出したのでファはぎょっとしました。「嵐が?こんなにいい天気が続いているのに?」そうさ、とこともなげにピアノは返しました。「嵐ってのはたいてい思わぬ時に来るもんさ。」
それもそうかもしれない、とハンガーは考えていました。嵐がくる、と思うとワクワクするような心持ちになりました。
「ベランダの植木たちを部屋にしまわなくては。」ファがおろおろしながら言いました。「自転車も木にくくりつけないといけない。食べ物もたっぷり買っておかないと。」
「酒がほしいな。」ピアノはのんびりと呟きます。「嵐の夜にはどうしたって酒がいるんだ。」
「それじゃあ、明日は買い出しに出かけましょう。」ハンガーがそう言うとファは嬉しそうに、ピアノは満足げに賛同しました。夜の道はしんとしてどこまでも続くようでした。

----------------------

真似っこ。敬愛をこめた模倣、オマージュのつもりです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2020年10月7日
読了日 : 2020年10月7日
本棚登録日 : 2020年10月7日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする