自警録 (講談社学術文庫)

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  • 講談社 (1982年8月6日発売)
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感想 : 15

 真の成功なるものは、己れの本心に背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠るにある。(p.140)

 古人の言に、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」(『十八史略』)
 とて、小人が英雄の心事を解し得ぬに譬えたが、この句は独り人物の大小の差を示すのみにあらで、小人と小人との間にも、大人と大人との間にも当たる言である。(p.143)

 思慮のない熱心ほど己れを害し人を害するものはない。ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、気象がさかんだとか、あるいは勇敢だとか、痛快だなと称する。しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、御する人があればこそその方向に進んでいくが、御する者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象の旺であるのであるが、惜しいかな心を守り、気を抑える力がないのである。古人の曰く、
「この心を敬守すれば則ち心定まる、その気を斂抑すれば則ち気平かなり」と。(p.194)

 彼の眠られぬ時はともに起き、彼の眠っている際もなお眼ざまし、彼の起きぬ間にとく起きて、彼の準備を助け、彼の眼や耳にさらに触るることなく、彼の身辺を擁護する母の情愛があって、始めて無難な試験を経たものと、迷信かは知らんが僕は信ずる。(p.230)

 大ざっぱの教訓も、すなわち忠義でも、孝行でも、信義でも、いずれも抽象的で、いかなる国民にも、いかなる境遇の者にも応用できるだけに、これは俺のことだと私の意味に取ることは薄くなる。それゆえに先に述べたように、こういう文字は人を責むる道具に用いるほうがむしろ多いかと思う。彼は不忠者である、彼は不孝者であるという言葉はしばしば聞くが、俺は不忠である俺は不孝であると感ずることは少ない。またたまたま己れの非を自覚しても、すぐに俺はまだ某々ほどに堕落せぬとか、あるいは俺の場合は特別であると自ら義せんとしたがる。(p.247)

 教訓も忠告も、その百分の一も功の無きはこれを受ける人の真情に当たらぬのと、これを受ける人に対する同情の薄きによると思う。約言すればとかくわれわれの忠告なるものには誠心誠意が欠けがちで、軽々しくするがゆえに、先方を動かさぬは当然のことである。人に忠告せんと思う者は口に言を発するに先立って深く心に念ずることこそ順序であろう。また人より忠告を受くるものは先方の誠意を疑ってはならぬ。彼の言は長く心中に念じたる結果、やむなく口外に出でたるものと思えば、これ実に天の声である。(p.254)

 偉大なる凡人となることは平凡なる豪傑となるよりも、はるかに上乗であると思う。米国に行きてことに感ずることは、この国には偉大なる凡人の大きことは、ほとんど日本において平凡なる豪傑の多きがごとくである。凡人をして偉大ならしむるのはそれ思想か。思想ほど恐ろしき力はない。人の動くのはみな思想の力によるのである。すなわち世の細事大業も機械に譬うれば思想なる原動力の発現にほかならない。(p.300)

 人が真に教育家なら笑っても教育になる。寝ているのも教育になる。一挙手、一投足、すべて社会教育とならぬものはない。われわれの目的および理想が教育であるなら、全身その理想に充ち満ち、することなすことがことごとく教育でなくてはならぬ。(p.314)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2016年11月24日
読了日 : 2016年11月23日
本棚登録日 : 2016年11月23日

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コメント 1件

よっしいさんのコメント
2021/03/28

教育者のくだり、私も共感しました。誰もが教え育てるものになり得る。よい促しです。

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