須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京 (文春文庫 お 74-1)

著者 :
  • 文藝春秋 (2018年3月9日発売)
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 実人生に表出できなかったものを、創作活動のなかで引き出し、結晶化させたところに、菅野書くことへの必然があったのだ。その孤独とは、人を絶望させ、悲壮感に追い込むものではなく、「人間のだれもが、究極においては生きなければならない」決意と励ましに満ちた孤独であった。それぞれにおいてその孤独を理解し確立しないかぎり人生は始まらないことを、それを自分が自覚していった速度にあわせてゆっくりと物語ったのだ。(pp.112-113)

 干潟を開拓して陸地にする、ということは理解できても、そこに島を造り上げてこれほど多くの石の建物を建てるということは思いつかない。地盤がゆるすぎるし、それよりなにより島は自然にできるものだ、とどこかで思い込んでいる。海中深いカラント層に、硬い材質の木を無数に打ち込み、その上に、イストリア半島産の石材を積み上げて、島の基礎はつくられた。それがなんと5世紀のことなのだ。(p.152)

 このせまい小さな島の街は、判断の基準がそれまで訪れたことのあるどんな都市とも激しく違っているので、正直いって、なにがどのように美しいのかを自分に説明できるまでに、ながい時間がかかったように思う。(p.154)

 頭で理解するのではなく、対象の前に立って感じたものを手がかりに自分とのつながりを探ろうとする。事前にガイドブックを呼んだりしなかったのも、知識が入り込んで間隔が曇るのを恐れたのだろう。知識は他人が開拓したものだが、感覚は唯一無二のこの体から出たものであり、それをもとに地図が描けたとき、はじめて知識が血となり肉となり、対象とひとつになる高揚感が与えられるのだ。(p.155)

 聖母像は傷ついた心を抱きとめるような寛容さを示しながら、地上の不幸や困難のはるか彼方に立ってこちらを見つめていた。そのあまりに強い視線に、「私」は魂が引きはがされて、向こうにもっていかれそうな危うさをおぼえる。そうなってはいけない。魂の私服だけを追い求めてはいけない。もっと具体的なものを相手に、現実にまみれて生きなければならない。
 そう直感した「私」は、外気を吸いにいったん聖堂の外に出る。そこには毎年巡ってくる、ごくふつうの夏があった。太陽に灼かれて首をうなだれているヒマワリ、草のかげですだいているコオロギ、風に揺れている黄色いキンギョソウ…いまが夏の季節であることを手触りのある生きものたちが告げていた。(p.220)

 カフェは単にコーヒーを供するだけではない付加価値が与えられてはじめて成り立つ商売である。ヴェネツィアのようなコスモポリタンの街には、古くから世界中の人が行き交い、情報や人脈のネットワークができ、商売の相談がおこなわれた。そういう用途に応じるものとして、カフェが早い時期から発達したのである。(p.226)

 壁の概念がまったくくつがえされていた。壁は外界をさえぎるためでなく、内部を「造る」ために積まれていて、その緊張感が巨大なドームを支えている。
 だが、そこにあるのは張力だけではない。はりつめた空気はドームの頂点で解かれ、小さな穴から一気に天空に上昇する。「緊張と解放を同時に味わわせてくれる」空間なのだった。(p.276)

 よく日本にいる外国人宣教師たちが、日本人の信仰は浅い、浅い、と言っているのを聞いて、なにを言っているんだろう、と思っていたけど、こちらに来てからその意味がよくわかりましたね。生活の中に生きている、日常性のある信仰なんです。須賀さんもそういう信仰を求めていましたし、コルシア書店にくる人たちと話したり、文学とかかわったりしたのもそれでしょう。生活の中で信仰を深めていこうとしたのだと思う。(p.294)

「角ばった大きな頭に両手をそっとかぶせると、木のあたたかみといっしょに、深み、のようなものがからだ全体に伝わる気がした。(中略)床においても、道に置き去りにしても大丈夫なような、量感ということの凝集みたいな」(ファッツィーニのアトリエ)これを読んだとき、須賀自身の姿がこれに重なった。(p.310)

 須賀と一対一で語りあうとき、時の密度は高まり、たゆたいながらも確かな中心をもった時空に誘われ、須賀弁ともいうべき独特の描写や言い回しがそれに愉しさを添えた。「今日は◯◯さんのことが頭から離れなくて、◯◯という模様の浴衣を着ているみたいだった」などと、須賀でなければ思いつかない突飛な比喩に爆笑させられたことも一度や二度ではなかったし、泊まりがけで金沢に行った夜に、古民家の宿の座敷に並べて敷かれた布団の上で、「ひるまにばらばらになった自分を集めているの」と言いながらイタリアの親戚から送られてきたクロスワードパズルを解いていたことも忘れられない。(pp.431-432)

 本を読んで、というのではなくて、私たちは、子供のころから、じつにいろいろな方法で、本のそとでおぼえた物語を自分のなかに貯めている。先年死んだ5つちがいの弟が小さい時は、寝入るまで私もよこに寝ころんで、いろいろな話をしてやった記憶がある。弟が3歳の時、こちらは8歳だから、ずいぶんたよりない語り手なのだけれど、自分では欠航、権威あるもののように思っていて、いいかげんなおとぎ話をつぎつぎにでっちあげては、話た。(p.450)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2020年1月5日
読了日 : 2019年12月3日
本棚登録日 : 2019年12月3日

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