イスラーム国の衝撃 (文春新書 1013)

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  • 文藝春秋 (2015年1月20日発売)
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 うちの両親はカトリックで、毎週必ずではないにしても日曜日は教会でミサを受けるのが幼少期の常識だった。長じて、科学的思考に親和性を持ち、SFなんか読みふけっていた少年にとって信仰の相対化はたやすいことであったが、それに先だって子供心にまず疑問に思ったのは、ミサのあとの集会で「布教しましょう」とか言っているのに、両親がちっとも布教しないことだった。
 教義を守ってねえじゃねえか。ということだが、では厳格に守るとどういうことになるのか、というと、原理主義となるのである。

 本書によると、「イスラーム国」は何ら新しいコンセプトは出しておらず、ムハンマド時代に確定された教義、つまり世界のイスラム教徒の常識に基づいた主張をしているのだという。それもものすごいこじつけ解釈というわけではなく、イスラム教徒なら誰でも知っているような、あるいは正面切って反論できないような教義に基づいて自己の行動を正当化しているだそうだ。この辺はイスラーム教に明るくない平均的な日本人にはピンとこないところだろう。
 例えば、「カエサルのものはカエサルへ」と一応は政教を分けるキリスト教、異教徒による支配を諦めているかの感があるユダヤ教と異なり、イスラームはムハンマドが多神教徒を武力で倒してイスラーム法の国を作ったということが教義の中心にある。「アッラーの道のために」という目的にかなった戦争がジハードであり、それへの参加がイスラーム教徒一般に課せられた義務である、というのはイスラーム法学上、揺るぎない定説である。よって、イスラームの民が異教徒に支配されているとか、イスラーム教が危機にあるという認識があれば、ジハードに身を投じなければならないというのが、アル=カーイダから「イスラーム国」までの論理である。
 イスラーム教ではムハンマドの正統的な後継者がカリフである。「イスラーム国」の指導者バグダーディーがカリフを宣言するのもまたイスラームの常識に則って世界中のイスラーム教徒の盟主であると宣言しているわけである。もちろんそれに同意するイスラーム教徒は少ないが、イスラーム統一国家への夢をかきたてるという意味で支持する者が出てくるのだ。
 しかも「イスラーム国」ではやはり聖典のハディースによって、世界の信仰者と不信仰者の全面対決が起こるという終末論的な教えを唱えている。いまこのようなテロ集団が生じたことは、オスマン帝国崩壊後のアラブ世界の分割やイスラエルの建国など欧米の勝手な振る舞いに端を発するという批判は正しくとも、非信仰者であるわれわれ日本人は「イスラーム国」に滅ぼされるべき敵であるということも認識しておかなければならない。
 よって筆者は「神の啓示による絶対的な規範の優位性を主張する宗教的政治思想の唱導」を日本の法執行機関と市民社会がどこまで許すか許さないか、確固とした基準を示さねばならないと述べる。

 こうしてみていくとイスラーム思想は大変危険な思想ではないかと思う。上記の思想は過激派の思想というわけではなく、穏健なイスラーム教徒も広く受け入れている教義だからである。もちろん危険視は西欧的価値観のもとにある日本の思想的な現状からみた限りのことかも知れない。しかし結局われわれは何かに価値観の基盤をおかねばならない。そのとき最大公約数的に受け入れやすいのは、民主主義や自由主義のイデーしかないだろう。われわれがイスラーム法を受け入れるわけがないからであり、「イスラーム国」が奴隷制を復活するのを許すわけにはいかないからである。
 そこで筆者は「イスラーム国」が呈示する過激思想を世界のイスラーム法学者が反論できるような宗教改革をしなければならないのではないかと述べる。

 本書の論点は「イスラーム国」成立に至る思想的・政治的な流れ、その実情、今後の中東情勢の見通しなど多岐にわたり、たいへん勉強になった。ただ、中東の今後の見通しを読むだに弱者が踏みにじられていくのだろうと思わざるを得ない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 評論
感想投稿日 : 2016年2月18日
読了日 : 2015年1月28日
本棚登録日 : 2016年2月18日

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