ドリフトグラス (未来の文学)

  • 国書刊行会 (2014年12月29日発売)
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5

 ディレーニーの短編のほとんどを含む決定盤短編集『然り、そしてゴモラ』(2003)に短めの長編『エンパイア・スター』を抱き合わせた日本独自編集版。『エンパイア・スター』の日本語訳はかつてサンリオSF文庫から1冊本で出されていたし、原書もエース・ダブルという2つの長編を抱き合わせた体裁の叢書で刊行されたということもあって長編扱いだが、本書冒頭の「スター・ピット」と同じくらいの長さなので、ノヴェラ=中編というべきだろう。ハヤカワ文庫の短編集『プリズマティカ』には別訳で収録されていた。ということでサンリオSF文庫の『時は準宝石の螺旋のように』とハヤカワの『プリズマティカ』を合本としたものがこの『ドリフトグラス』とおおむね等しい。おおむねというのは2編本邦初訳が含まれているからであり、この初訳を担当した小野田和子がさらに4編を新訳し、『エンパイア・スター』は酒井昭伸による新訳(つまり3つめの翻訳)が収録されている。
 そしてオマケがある。ディレーニー自身による短編集あとがき、高橋良平による「ディレーニー小伝」、伊藤典夫による「時は準宝石の螺旋のように」に関する短いエッセイ、そして酒井昭伸による『エンパイア・スター』の補注。
 これらをタイトルをエンボスした白いジャケット(ビートルズの『ホワイト・アルバム』みたいだ)に包むと、黒い『ダールグレン』の姉妹編のような体裁になり、しかも辞書のような厚さ。これは電子書籍では味わえない悦楽である。

 「スター・ピット」はじめ、宇宙時代に遠宇宙に行くためには(あるいは深海に潜るには)特殊な能力(あるいはある種の障害や身体改造)がないとだめという設定のもと、その力のない主人公は宇宙の場末でしがない商売をしているという閉塞感の強い短編が多い。という印象が前半を覆っている。22歳の時、自殺衝動にとりつかれ、精神病院に入院したことのあるディレーニーにはこういう側面が確かにあるのだ。だが、われわれのよく知る「華麗な」ディレーニーとしては中盤に収録された「時は準宝石の螺旋のように」がやはり白眉である。
 ホログラムはいまはお札にまで印刷されているようなものになったが、これが書かれた1960年代にはまだまだ未来的な技術だった。ディレーニーは立体視するというよりもホログラムに蓄えられた情報においては部分に全体が含まれているという点に注目している。むしろフラクタルな認識といういうべきだろうか。「時は準宝石〜」はホログラム的認識を得てのし上がっていく暗黒街の男の肖像を切り取ったスタイリッシュな作品。
 それからSFではなくておとぎ話の「プリズマティカ」、このあたりがやはり鮮やかだ。

 「エンパイア・スター」もまた見事だ。田舎の星に住むコメット・ジョーが宇宙帝国の中枢エンパイア・スターへのメッセージを託される。この作品で重要なのはホログラムに似て、シンプレックス、コンプレックス、マルチプレックスという概念だ。酒井昭伸は単観、複観、多観という漢字をあてる。田舎の惑星の単純な認識しか持たないシンプレックスなジョーはメッセージを託されるもののメッセージが何かはわからない。ジョーの認識力がコンプレックス、マルチプレックスとなるにつれて作品世界の複雑なありさまがホログラムのように立ち上がってくるのだ。
 この壮大な話を現在の出版界だったら10倍の長さの長編にするように編集者が求めてくるに違いない。それはそれで面白いかも知れないが、ある種の凡庸さに陥るに違いないという気がする。マルチプレックスな読者なわかるだろうとばかりに断片を示すやりかたは、原板を細かく分割してもそのひとつひとつに全体像が記録されているというホログラムのように部分で全体を示す魔術であり、多彩な光を放つプリズムのように作品を結晶化させているのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: サイエンス・フィクション
感想投稿日 : 2016年2月12日
読了日 : 2016年2月12日
本棚登録日 : 2016年2月12日

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